食べかけのココアマフィンを小鳥に

上の記事で初めて電話をくれた琴里のことを考えていた。自作小説のヒロインの名前をどうしようか考えているとき、ART VIVANT で手に取ったこの本の名前を思い出したのだった。 

小鳥の肉体―画家ウッチェルロの架空の伝記

小鳥の肉体―画家ウッチェルロの架空の伝記

 

家から歩いて数分のところに、残念ながら閉店してしまったメロンパンアイスの角を曲がると、観光客御用達の小さな老舗のうどん屋「ことり」が見える。この細く短い路地が気に入っていて、散歩のときによく選んで通る。松山独特の甘い鍋焼きうどん店には、歩いて1分のところに「アサヒ」という老舗もある。

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地元の松山市の豊かな観光資源のうち、「文学」と「自転車」と「オールド・イングランド」がうまく結びついていないのではないかと書いたことがある。

ただ、綺羅星のような先人たちが残した文化資源を、この街はまだ汲み尽くしていないというのが私見で、オールド・イングランドの意匠は『坊ちゃん』を書いた漱石の倫敦留学と結びつけて、観光客の旅情を喚起するべきなのではないだろうか。

(…)
倫敦留学中の夏目漱石は、当時普及し始めた「安全自転車」の一大ブームに文字通り便乗して、現代の小学生が懸命に練習するように、ロンドンで自転車乗りの練習に精を出している。その結果が散々なものだったことも、エッセイでこぼしている。

 先日思いがけず、松山市の歩行者専用のアーケード街を、自暴自棄になった危険運転車が暴走していった。事件のスペクタクルな映像もさることながら、「地方のアーケード街なのに、シャッターがまばらで通行人がいることに驚き」というネット上の発言にも、地元民として驚かされてしまった。地方の街の商店街は、どこもかしこもシャッター通りだと思っているのだろうか。

ただ、まだ人通りが消える怖れはないとはいえ、アーケード街にポツポツとシャッターが降り始めていることは確かだ。人通りはそれなりに豊かにあるものの、そこで消費行動をとる人の数が少ないだろうことが、商店街の沈滞を招いているのではないだろうか。通勤通学用に歩行者通路としてのみ活用している人々が多そうだ。

都市の回遊性とは,人が物・サービス,時間,マネーを消費する消費者行動の流量であり,特に初動目的を超過した付加価値を求めて渡り歩く事である。消費者の満足は初動目的達成価値だけでなく,それを超過した付加価値の消費によって得る満足により成長する。都市の回遊性をマネジメントする為には,供給者サイドの回遊性概念と消費者サイドの回遊概念の整合性を図り,回遊性の生産性を上げる革新的な工夫が必要となる。回遊性の効果は都市エクイティに帰結するものでなくてはならない。 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jares/29/1/29_95/_pdf

 論文向けの語彙で書かれているので、普通の人には分かりにくいかもしれない。やや主観的に超約すると「想像以上の物を体験できる回遊性がその都市にあれば、消費行動は成長し、都市ブランドも成長する」という感じ。

この街にはまだまだ観光資源を生かせる余地がある。道後温泉周辺だけでなく、松山市中心部に「回遊性」を活性化するような仕掛けを施せば、松山の都市ブランドはさらに向上し、アーケード街ももっと賑わうのではないだろうか。

土地勘のない読者に、ローカルな地名を羅列して申し訳ない。観光客がこのような経路で回遊するためのコース設計を、松山市は考えてみてはどうだろうか。

大街道口→「坂の上の雲」の坂→ロープウェイ→松山城→大街道口へ戻る→大街道→銀天街→大観覧車くるりん→花園通り→県立美術館→お堀公園→二の丸庭園→萬翠荘坂の上の雲ミュージアム

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この縮尺の Google地図上に書かれていなくても、この回遊ルート周辺(道程の約半分はアーケード街)には、観光資源がたくさんある。冒頭の「ことり」だけでなく、五色そうめんの「五志喜」、おはぎの「みよしの」、ピザ世界チャンピオンのいる「ダ・ボッチャーノ」、お取り寄せスイーツ全国上位の「霧の森大福」など。飲食店以外でいえば、大観覧車のくるりん、二の丸庭園、愛媛県庁本館(東京タワーと同じ設計者)など。

ガイドブックはもちろん、QRコードスマホと連動可能な道標や、俳都らしい句碑などをマイルストーンとして、都市中心部に回遊性を持たせることができれば、観光客による消費機会も増え、「いで湯と文学の街」松山の都市ブランドも向上するにちがいない。三津浜で「街おこし」に人生を賭けている友人もいる。こういう地元の街に生命を吹き込むブレイン・ストーミングを皆でワイワイとやったら、きっと楽しいだろうな。

 日本の各都市は、テクノロジーの進化に伴うスマート・シティ化と、人口減少によるコンパクト・シティ化の二つを、同時に進めていかねばならない。しかし、都市計画家という肩書の専門家をほとんど持っていないこの国は、あるべき都市像について、さほど多くの蓄積を持っていないように感じられる。新しい都市計画の立案とその実行は gdgd な緩慢さでしか進まないだろう。

そう語るのは、都市計画に詳しい建築家の書いたこの本。一息で要約すると、 人口増加時代、日本の都市はスプロール状(虫食い状)に農地を都市化していったので、これから来る人口減少時代でも、都市はスポンジ状(虫食い状)に商業地や住宅地を低密化していくだろう。そのスポンジ状の穴のひとつひとつを、周囲の住民の社会資本とすべくコミュニティ機能を持たせた再開発をする(空き家再利用などの)スポンジ活用化が、長期間かかるコンパクト・シティ化の手前で進行するだろう、といった感じか。

都市をたたむ  人口減少時代をデザインする都市計画

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

 

 あるべき都市像について饒舌に語ってくれたのは、意外にもスローフードの「日本窓口」に似た活動をしている島村菜津だった。 

スローシティ?世界の均質化と闘うイタリアの小さな町? (光文社新書)

スローシティ?世界の均質化と闘うイタリアの小さな町? (光文社新書)

 

 イタリアの「スローシティ」を紹介した本だけあって、導入として登場するのはイタリア人作家のイタロ・カルヴィーノ。日本でいう「ファスト風土化」の行きつく果てに、こんな小説の風景が待っていることを、読者に強く印象付けてくれる。

 それは、マルコ・ポーロが、目にしてきた世界中の国々のことを、タタール人の王、フビライ・ハンに報告するというかたちをとった短編小説だ。そして、それらの実在しない町々は、カルヴィーノが目にした現代の都市を投影したのだという。

 しかし、この70年代に書かれた小説を読み返して、私は戦棟した。短編の中で、マルコ・ポーロは、ハンにこう伝えていた。

 トルーデの地を踏んだとき、大きな文字で書かれたこの都市の名を読んでおりません でしたら、私は自分が出発してきたばかりの同じ空港に到着したと思いこむところでご さいました。延々と通り抜けさせられるその郊外は、黄と緑の色を帯びた同じ家並の、 あのもう一つの郊外と異るところはございませんでした。同じ矢印にしたがって、同じ 広場の同じ花壇のまわりを迂廻するのでございました。都心の街路は何一つ変わること のない商品、包装、看板を見せびらかせておりました。

 そして、自分が宿泊するホテルもすでに知っている同じ空間ならば、そこで交わされる会話までもが何もかも同じだった。
 マルコ・ポーロは自問する。
「なぜトルーデに来なければならなかったのか?――と」
 すると、トルーデの住民たちは、平然とこう告げるのだった。いつでも自由な時に、この町を去ることができる、しかし……。

 また、何から何まで同じもう一つのトルーデに着くのです。世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始めもなければ終わりもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市なのです。  

見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

 

巨大資本による支配のせいで、画一化が極限まで進んだトルーデのような街を、島村菜津はエドワード・レルフを引きながら、「没場所性」という概念について、私たちが考えるべきだと強調している。自分なら、有名な小説のタイトルをもじって「存在の耐えられない所在なさ」とでも読んでみたい気持ちだ。日本の郊外にある全国チェーンの同じ看板が立ち並ぶ幹線道路を走るのは、自分も居心地が悪いのだ。

巨大資本が産出する「存在の耐えられない所在なさ」に、イタリアの小さな村がどのように抵抗しているかは、『スローシティー』を読んでもいいし、ちょっとだけチャンネルを合わせるだけでもよいかもしれない。

美しく生きるということ...。気候や風土に逆らわず、共存しながら暮らす。先人たちが築き、守ってきた伝統や文化を誇りに思いながら生きる。人間本来の暮らしが息づく「小さな村」が今、注目されています。

海を臨む小さな漁村、山肌にはりつくように佇む村、山に覆われた山間の寒村・・・。古き良き歴史と豊饒の大地をもつイタリアで、心豊かに生きる人たち・・・。

”豊かに暮らす 美しく生きる”とはどういうことなのか。

私たちが忘れてしまった素敵な物語が、小さな村で静かに息づいていました。番組ではありのままの時間の流れを追い、村人たちの普段着の日常を描いていきます。

むしろ面白いのは、イタリアの小さな町を取材し終えた著者が、幾分かの主観を交えながらスローシティーを作り上げるのに必須の8項目を列挙しているところだろう。

  1. 交流の場をどんどん増やそう。
  2. 魅力的な個人店は、意地でも買い支えよう。
  3. 散歩をしながら地元のあるもの探しをしよう。
  4. ゆっくり歩いて楽しめる町を育てよう!
  5. どうせやるなら、あっと驚く奇抜な祭りを!
  6. 水がただで出てくるありがたさを今、噛みしめよう!
  7. エネルギー問題は長い長いスパンで考えてみよう。
  8. そろそろ、人を惹きつけるような美しい街を創ろう。

 ここにしかない固有の場所、この場所で生きていく固有の人々、徒歩の速さで見える風景、歩けば歩くほど新発見が生まれること、人々同士が話し合う場があること、多様性が次々に生まれること、巨大システムに依存しないこと。

自分なりにキーワードを拾っていくとそんな感じだろうか。

 と、このタイミングで、甘いものでもつまんで、気分転換をしようと思って、珈琲とココアマフィンを運んでいると、電話がかかってきた。

琴里:先生、書けなくて困っているんじゃない?

ぼく:ああ、琴里。電話ありがとう。よくわかるね、もう朝の5時。頭が働かなくて、お手上げさ。

琴里:参考になるかしら。こんなニュースが最近流れていたわ。 

ぼく:ありがとう。きっと自動運転車への布石だね。ソフトバンクとホンダの日本企業連合が動き出したわけだ。そういえば今晩の記事だって、自動運転車の開発が進めば、都市計画を大きくやり変えなきゃいけなくなる。いずれ多国籍企業連合軍が、その都市計画にまで進出して、ぼくらの街へ攻め入ってくる。だから、その前に少し勉強しておこうと思って書きだしたんだ。

琴里:でも、書けなくなった。

ぼく:書けなくなったわけじゃないよ。このあと、上で話したキーワード群が、世界企業のホンダの「ワイガヤ」に似ていることに触れて、「ポスト京」へ行く手前、スパコン「京」の開発でも、「ワイガヤ」が使われていたことを書こうと思っていた。

ぼく:ワイガヤ自体が一種の都市空間のようなものだから、ワイガヤが書ければ、都市計画の話は一段落。あとは回遊ルート沿いの桜並木を梃子にして、桜をうまく引っ張ってきて、文章をうまく締め括れそうな気がしていたんだ。でも…

琴里:でも、また別のことを考えていた。

ぼく:その通り。今晩中に「魔性の女」という言葉を、何とかこの世界から完全に消せないかなと真剣に考えていた。でも「Go! 魔性」と「ごま塩」の響きの重なりを見つけたところで、フリーズしちゃってたんだ。シニフィアンの戯れが不調だから、もういっそ造語しちゃおうかなとも思うよ。**先生はどんどん Coin した方が良いって助言してくれるんだ。ちなみに Coin というのは「新語を作る」っていう意味。

琴里:先生をそこまで追い込むところが、「魔性の女」たるゆえんだといえそうね。

ぼく:違うよ、ぼくは好きで、というか月でやっているだけ。彼女はそう呼ばずに「Fauchon の女」と呼んでほしいな、頼むから。

琴里:「魔」が「Fau」に変わるというわけね。どうして?

ぼく:「魔法」がかかっているうちは、そうなるのさ。むしろ彼女は「褒章」に値するとも思うし、それも、とびっきりのやつに。

琴里:たとえば、藍綬褒章のような?

ぼく:Yes. さすがは琴里。フランス語で「L'ange Fauchon」。「天使的褒章」という意味だよ。

琴里:先生、さっきから言っていることが少しおかしいの、自分でわかっている?

ぼく:わかっているよ。どうやら本当に Coin しちゃっているみたいなんだ。

琴里:そんなこと言っていたら、いつまでたっても書き上がらないでしょ。しっかりしてよ!

ぼく:大丈夫。琴里で始まった記事だ。きちんときみが終わらせてくれるって信じているから。あ、食べながら話して、ごめん。この甘いココアマフィンがたまらく好きで…

琴里:いい加減にしてよ、先生! 続きを書かなきゃ終わるわけないでしょ。もう私は知らないから!

 そういうなり、琴里は電話を切った。甘い終わりではあるものの、終わらせてくれてありがとう、琴里。

私はそう心の中で呟いた。

皿の上には、食べかけのココアマフィンが残っていた。

より正確に言うと、「コ取り」が去った後の「甘いFIN」が。