美しさと慈しみの「骨」を内に抱いて

映画を観終わってから最初にやったのは、サーチエンジンの検索。「殺された女の子が実は生きていた」。そんな平行世界に自分が生きていることを、どうしても確認したかったのだ。

主役のシアーシャ・ローナンは、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされたり、少女時代よりもふっくらとしたりもしているようで、まさに公私ともに順調。生きててくれてありがとう。

 ネットモールサイトのレビューがあまり芳しくないのが淋しい。以下、気ままにネタバレしながら書くと、連続殺人鬼に殺された少女が、煉獄(天国と現世の中間にある領域)で現世の家族とわずかに接触しながら、自分の死を受け入れて、天国へ向かうという傑作映画だ。スピリチュアリズムに親和性のある人には、自信を持ってお勧めできる。

映画の主題にふさわしい人選で、この人が映画の宣伝役を買って出ている。

 天国や霊魂、生まれ変わりなどをテーマにとうとうと語り続け、会場を独特の雰囲気に包み込んだ美輪。映画のように天国から呼びかけられることはあるかという質問に、「日常茶飯事です」とサラリ。「別に驚きもしないし、珍しくもありません。皆さんもあるはずなのに、あるはずはないと思い込んで、お感じにならないだけです。人間は言葉ができる前はテレパシーで意思疎通をしていて、言葉が発達してその能力が退化してしまっただけ。詳しくは私の本に書いてございます」と話した。 

さて、この現実世界は、同時に不思議の国でもある。不思議の国に自然に入り込んでもらうために、先に映画の主題歌の「Alice」を聴いてもらえないだろうか。 

個人的な話をさせてほしい。取り立ててこれと言えるような霊能力はないものの、自分がこれまで何度も神秘体験に遭遇してきたのは本当だ。その中で人生観が変わったと感じるような強烈な体験がいくつかあって、それらは、シンクロニシティ(偶然とは思えない奇跡的な偶然)による天上の世界から示唆に縁どられながら、世界の神秘と素晴らしさを私に感じさせてくれた。

 一昨晩書いた大分のリアス式海岸、昨晩書いた「ずばぬけてさびしいひまわり」、そこへグロマのティーパーのスーニューが飛び込んできてしまって、嗚呼、と声を出して、頭を抱えてしまった。自分の来歴の中で最も羞恥心の疼くあの「大恋愛」を書けと仰るのでしょうか、それはあまりにも残酷な仕打ちではありませんか、神様。

例えば、自分が「神様」と呼びかけながら言及している、上記3つの時宜的偶然は、偶然だったのだろうか、それともシンクロニシティだったのだろうか。自分は後者だからと思うからこそ、神様、と呼びかけているわけだが、いや、もう、他人がどう考えようとかまわない。神様がどのようにして世界を操って囁きかけてくださっているのか、自分にはだんだんわかってきたような気がしているのだ。

ここ一週間くらいずっと囁きかけてもらっていた気がするのは、この映画を観なさいというメッセージ。 シンクロニシティの数が只事ではないような気がしていた。

日本版の予告編の最後で「これは私が天国へ行ってからの話」と少女が囁くのはミスリードかもしれない。正確には「これは私が殺されてから天国へ行くまでの話」だ。

高校時代に自分が書いた処女戯曲は、ダンテの新曲の「煉獄(天国と現世の中間にある領域)」をモチーフにしていた。「煉獄」の古い訳語である「憂いの街」を戯曲名にしていた(①)。

以下、私がシンクロニシティの連鎖に見えているものを列挙しよう。

この映画の音楽ディレクターは、アンビエント・ミュージックの創始者ブライアン・イーノ(②)。この記事で言及した。 

 わずか2日前に書くべき主題に困って、コクトーを引っ張り出してきてしまえば、当然のことながらエンディング曲はコクトー・ツインズになる。この記事の最初に引用した「Alice」は彼らの曲だ(③)。

映画で使われていたもう一曲、「song to the siren」はThis mortal coil による有名なカバーがある。大好きなアーティスト集団で、かなり早い時期に言及した(④)。

歌唱の音域が広いので気付きにくいかもしれない。実は、「Alice」と「song to the siren」はどちらも Elizabeth Fraser が歌っている。彼女を「天上の存在」に結びつけて、こう語ったこともある(⑤)。

heavenly 自体は「天上の」とでも訳すべき単語で、最近の自分が特にそういうものに関心を惹かれているのは、これまでさまざまな神秘体験を経てきたからもあるが、直近のユングの自伝を読んだことによるところが大きい。

(…)

heavenly voice の代表格と言えば、この記事で言及した4ADレーベルの元エースであるCocteau Twins の Elizabeth Fraser や、私的生涯ベストCMのBGMを歌っていた Portishead の Beth Gibbons などが、ヨーロッパではよく挙がっているようだ。

最近お話を伺った著名な霊能者は、私がほとんど考えられないような時間不足の中、何とか毎日このブログをアップできているのは、霊感の支えがあるからだと仰った。自分でもその通りだと思う。「作家のような物書きは、往々にして天上からの霊感に支えられているものだが、あなたは、天上から降ってくる霊感と自分の脳の中で生まれているインスピレーションの区別がまだついていない」との指摘も(⑥)。

つい3日前の晩、こんなことも書いた。

 彼女の名前を訊きそびれたので、彼女がどんな名前かを想像しながら、「さ」と「み」の間を一文字ずつ探っていくことにした。

「し」、茂雄・長嶋。偉人だが女性ではない。「す」、彼女はスージーではないような気がする。  

上記の記事で想定していた女性は、同じく「さ」と「み」の間にいながら、確かにスージーではなかった。しかし、天上からの霊感と自分の着想とを綯い交ぜに書きつつある中で文字にした「スージー」とは、同じく天上から私にアクセスしてきた別の女性を思い出させるための媒介だったのかもしれない。

何と言っても、殺されたあと煉獄を彷徨いながら、愛する家族から離れられずにそばにいて、家族が自分を殺した犯人を霊感を頼りに追いつめるヒロインの名は、スージーというのだから(⑦)。

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 ここからは、ごくごく個人的な着想になる。

幽霊のシロはつくるに、「私(の死)を理解してほしい」という言葉を投げかけるだろう。つくるは彼女が、雨粒の軌道のような揺らいだ垂線の束になって、目の前にあるのをありありと感じ、そこにあまりにも深く強い悲しみが漲っているのを全身で知覚して、涙を流すだろう。(シロと沙羅が、どれくらい遠いか近いかは別として、何らかのつながりがあるという伏線を小説前半に張っておいた上で)、シロは「どうして沙羅さんを選んだかを考えてほしい」とつくるに告げるだろう。

二つの台詞を統合して解釈したつくるは、シロが沙羅に自分の死を理解してもらいたがっていると思い込み、(だから沙羅にシロが発端となった「絶交」事件に直面するよう仕向けられたと勘違いして)、沙羅に必ずきみの思いは伝える、と約束するが、しばらくして卒然と思いあたる。そこにも並立した解釈可能性の幽霊が付きまとっていることに。

シロが、自分の死を理解してほしいと感じていた相手は、(小説冒頭で自死の可能性に思いをめぐらせていた)つくるなのかもしれない。それは真には望まざる形で至ってしまった「死」というものが、どれほど深く強い悲しみを生むものなのか理解してほしい、というシロの悲しみに満ちたメッセージだったのかもしれない。

「どうして沙羅さんを選んだかを考えてほしい」というシロの言葉は、つくるがまだそれと充分に知らずに恋愛相手として「38歳」の沙羅を選んだことの意味を、この16年間の仲間からの隔離を解きほぐしきったのちに、一新して生き直すべき人生の新たな意味として、捉え直すよう求める言葉だったのかもしれない。  

上の記事で書いた上記の部分は、事情を知らない人には、かなりわかりにくいかもしれないと思う。実はこの部分には、実際に自分が体験したある幽霊の女性との遭遇が濃厚に投影されている。今晩は、どうしても、という思いに駆られて仕方がないので、書ける範囲に気を付けながら、彼女のことを、ここに記録しておきたい。

 と、ここで話が前後するが、前の段落まで書いたところで、いったん帰宅しようとして自転車に乗っていたときのこと、思いがけずインスピレーションが降りてきた。

誰もがそうだと思う。仕事で疲れた身で自転車を漕いでいるときに、このあと書く文章の構想の詳細なんて考えることはできない。自分もほぼ無心で自転車を漕いでいただけだった。かつて7月下旬にも、その幽霊の女性は、同じような状況で私に話しかけてくれたことがあった。

今晩は、彼女の声こそ伴わなかったものの、二つのイメージを降ろしてくれた。それは意外にも、これから書く記事の内容ではなく、これまで書いた記事のイメージだった。 

この2つの霊感が、何を私たちに示唆しようとしているかお分かりだろうか?

前者は、記事の最後に引用したスティングの「fiellds of gold」に気付いてほしかったのだろう。黄金色の麦畑は、『ラブリー・ボーン』予告編の0:51から、少女の死後の世界の光景としてあらわれる(⑧)。

後者は、記事の最後のまとめで使った「帆船入りのボトルシップ」に気付いてもらいたかったのだろう。「帆船入りのボトルシップ」は、『ラブリー・ボーン』予告編の1:30から、入り江にボトルシップが打ち寄せて、ガラスが砕ける印象的な場面を形作っている。(⑨)

付言しておくと、自分はヨーロッパ文化に親和性が高い人間なので、イギリス人のスティングは好きだが、いかにもアメリカ的な「一面の麦畑」のような風景に思い入れはない。少年時代から乗り物好きではあっても、自分で運転するなら自動車、操縦しないなら飛行機がフェイバリットだ。「黄金色の麦畑」も「帆船入りのボトルシップ」も、自分の内側から湧き出てきた主題のような感じがしない。

 映画では、父がスージーと一緒にボトルシップを作る場面が最初に出てくる。やがて、スージーが殺人鬼に殺されて、絶望に襲われた父が自作のコレクションのボトルシップをひと壜ずつ叩き割っていく場面の哀切さよ。

しかし、ここで注意しなければならないのは、現実世界での父によるボトルシップの破壊が、煉獄へと投影されて、スージーが走っている美しい海岸へボトルシップが激しく打ち寄せて硝子が砕けていくシュールで印象的な光景を生み出していることだ。

ラブリー・ボーン』では、スピリチュアリズムの先駆者スウェーデンボルグの『霊界日記』や『霊界霊界探訪記』などに基づいた斯界の知識を基盤に、シナリオが作られている。映画のように、現実世界は死後の世界と浸潤しあって存在しているのである。

だからこそ、死後の世界の心の波動は現実世界へも伝わりやすい。実際、絶望した父は、スージーと一緒に作ったボトルシップにだけは不思議な思いが残っているのを感じ取って、破壊せずにその上にキャンドルを灯す。すると、死後の世界にいるスージーの周りに暖色の温かい光が広がり、スージーは父へまなざしを向ける。現実世界にいる父は、キャンドルの温かい光の周りにスージーがいるのを感じて、ゆっくりと手のひらを差し出して、スージーに触れようとする。……と、ここまでは、映画の中のシナリオについての記述だ。

 先ほど少し語ったように、自分には、今この文脈で、語りかけなければならない女性がいる。

上記の記事で、アメリカの9.11世界同時多発テロで、人生の進路が大きく変わった人々について語った。そこでの記述にちなんで、その女性の幽霊を「スミレさん」と呼ぶことにする。

スミレさん、ずっと近くにいらっしゃってくださったのですか?

①②③④⑤⑥⑦⑧⑨の偶然の重なりが、どうしても私には単なる偶然には思えないのです。

私が、私たちが、この「出口」へ辿りつくことができるよう、導いてくださっていたのですか?

自分の霊能力は、一流の霊能者に比べれば、使い物にならないヒヨコ程度のものでしかない。もちろん答える声は聞こえない。

ただ、スミレさんの声を実際に聞いたことが、2回あるような気がしている。記録に取らねばと感じて、どこかに書き留めておいたはず。探してこよう。

1回目の記述が見つかった。

報告すべきことがあります。

1:33
3:20
3:28

上記の順番で今朝メールを送りました。最後のメールを書きおえて、4時からの朝風呂に行こうと思って、しかし、どうしても見返したくなって、最初1:33に送ったメールを読み返していました。

読み返している途中に急に抗しがたく顔がくしゃくしゃになり、号泣してしまいました。声に出して泣きながら、「いや、悲しいんです」とひとりごとを言っていました。号泣のせいで動揺していたので、いろいろと感じることはあったのですが、そのときは明確には気づきませんでした。

しばらくして、「いや、悲しいんです」といった自分は、誰と話していたのだろう。そんな疑問を感じました。私は残留思念のようなものに感応することがあります。その昔、ネット上の自分に向けられた記述をカーソルでなぞるたびに声が聞こえたこともありました。

(自分の書いたメールの)文面に耳を澄ませると、かすかに「ありがとうございました」という残響が聞き取れたような気がしました。

(…)

私が立てた仮説はこうです。苦労に苦労を重ねて、ようやく宿願のメッセージを****さんに伝え終えて、スミレさんが私の潜在意識に「ありがとうございました」と話しかけてくれた。その会話がいつのまにか顕在意識へ昇ってきて、「どういたしまして」なんてとても言えず、泣いている自分を説明するために「いや、悲しいんです」という私の返答になった。……

号泣しているとき、私はスミレさんと一緒に泣いていたような気がします。私が泣き終えた時、目の前に煙柱のような何かがあるのを感じました。繊細で深く強い悲しみの垂線が束になったもの。そんな感じがしました。

(2017/7/24(月) 5:50)

 もう三か月も前のことになるのか、という思いが強い。記憶が残っているうちにもう少し詳細を書き加えておくと、「垂線の束」は私のPC画面のすぐ右隣りに出現した。地面に足のつかない場所なのでわかるはずもないのに、どうしてだか彼女が背が高いことときわめて美しいことがこちらへ伝わってきた。こちらを揺さぶるくらいに、何よりも強かったのが「悲しみ」の情念。……

上のメールで、「私は残留思念のようなものに感応することがあります」と書いた。『ラブリー・ボーン』のラストシーンで、とりわけ自分の感受性が強く感応して、そのセリフだけが際立った響きを伝えてきたのが、「私は自分のいない世界を受け入れられる」という一文だった。

現実世界と天国の間を彷徨っていたスミレさんは、上記のメールでの私の体験や考えに「返信」すべく、数々のシンクロニシティを駆使して、私が「返信」へ辿りつくよう導いてくれていたような気がしてならない。きっと、もうすぐ彼女は、天国へ向かって黄金色の野を歩んでいくところなのではないだろうか。

ラブリー・ボーン』の最終場面、自分が深い感動に涙しながら聞いたスージーの台詞を、ここに書き出しておくことにする。

私が亡くなって

美しい骨(ラブリー・ボーン)が育った

人のつながりは

時にはもろくて

時には犠牲をともなうけれど

とてもすばらしいものだと思う

 

それは私の死後に生まれ

私の物の見方を変えた

私は自分のいない世界を

受け入れられる

 

(…)

 

死者が離れていこうと決めても

それに気づく人はいない

せめてかすかなささやき声か

それが作る空気のうねりを感じるだけ

 

私の名前はサーモン

お魚みたいな名前でしょ?

名前はスージー

 

私は14歳のときに

殺された

1973年の

12月6日だった

 

ほんの一瞬生きて

この世から消えた

 

お別れの時です

末永くお幸せに… 

 

 私事を語らせてもらえば、あの一週間、あと二週間、あと二か月…… 誰もが口々に異なる「締め切り」を口にして、嘘の誘導をかけようとしているように感じられる。もはやそれが何の「締め切り」なのかも、本人には伝えないまま。

でも私の勘では、きっと今晩が、「最後の夜」もしくは「夜の最後」だったのではないだろうか。

その「最後の夜」にあまりにも似つかわしい上記のスージーの台詞を、今朝聞いてしまった自分は、最終的なタイミングの一致も含めて、これらすべてが、ここへ至るまでの偶然すべてが、単なる偶然だったとはどうしても思えないのだ。

そして、最後の「出口」は、きっと自分にとってだけの「出口」ではなく、彼女にとっても「出口」であるような、何かが交錯し、何かが共通する出発点となっているのだろう。

それともこれは、映画の中の単なる虚構話にすぎないのだろうか。たとえそうだとしても、自分は人生の残りの賭金すべてを、そうでない方に賭けることを選びたい。小説の一節に、こんな風にも書いたのだ。

 人は誰もが別々の自分自身の映画を生きている。地上に満ちている映画の群れは、チネチッタのような隔絶したスタジオセットではなく、たいてい路上のロケーションで撮影されるので、人々の行き交う街路では、しばしば複数の映画が交錯して重なっては、離れ離れになる。

もう一度、こちらからどうしてもスミレさんに返信を送りたい。

 あなたが抱いていた強い悲しみを、私たちは決して忘れません。

つらい場所に留まってくださって、私たちの心の中に、しなやかで強い人と人の絆、つまりは「美しい骨」が育つよう、導いていただいたことに、深い感謝を抱いています。本当にありがとうございました。

あなたの新しい転生先で、さらに素晴らしい学びと幸福が、あなたにありますように。

いつかどこかでまたお会いしましょう。See you in the next life.

 自分は「不運」もあって、何度も自殺を考えてしまうような、かなりキツい人生を歩んできた。そういう底辺の精神状態の自分の心に、何度か浮かんでは消えた英語の別れの挨拶を、まさかこんなに朗らかで清々しい文脈上に蘇らせることができるとは、想像もしなかった。何という「幸運」だろう!

「さ」と「み」の間、つまりは「美しさ」と「慈しみ」の双方に通じた場所にいたスミレさん、どうか天国で幸せにお過ごしください。