ファインダー越しの「www」

www...

ん? 誰かがこちらを笑っているような気がする。どうしてだろう。

…気のせいだった。www は worldwide web の略だった。ここがネット上なら、あのような「笑い」さざめく記号によく遭遇するのも、自然なことだろう。

これもどうしてだかわからない。数回しか海外渡航経験がないのに、どうしてだか自分は、若い頃からいつも世界大の発想をしてしまう。元々は日本を代表する日本的な話にも、不思議な脈絡で世界大の話が絡んできてしまうのだ。

というわけで、20代の自分にとっての「祝祭」は芸術の都パリとは結びつかないまま、「蜜蜂」と「王殺し」と「サッカー」の三つと奇態な結びつきをしてしまった。それでユニークな小説がひとつ書けるのではないかと考えて、いろいろと図書館で調べまわっていた。20代半ばの頃の話。やけに懐かしく感じられる。

そのユニークな小説のメイン・ストーリーが、こんな着想にあったことも、上の記事で語った。も莫迦話で申し訳ないが、この手の話を興奮気味に本物の作家にしたこともある。

1998 FIFAワールドカップ日本代表 - Wikipedia
W杯予選中、日本代表のツートップはカズと城だった。カズはW杯直前にメンバーから外され、ほとんどの国民がそれを「死刑宣告」のように聞いて、同情を寄せた。メンバーを外されて、髪を白金に染め直したカズを見て、一夜にしてストレスのあまり総白髪になったとかいう悲痛なデマが流れるほどだった。当時のカズは31歳。カフカ『審判』のヨーゼフKと同い年だ。
「城とKのツートップなんて、不条理文学にとっては夢のような布陣ですよ。これだけで『優雅で感傷的な日本サッカー』が書けるんじゃないですか?」

自分は小説を書く前に調べ物を丁寧にする癖があって、自分のインスピレーションと現実や歴史との連携を強固なものにする「熟成」がないと、小説がアクチュアリティとすれちがった空想物になってしまうと信じている。そういえば当時、31歳のKの背番号から、カバラ数秘術まで調べていたはず。彼の背番号は11で、11はカバラでは特別な数字なのだ。 

今朝起きた後の数十分で、そのメイン・ストーリーとは別に、世界有数の砂漠を歩いていく或る意味では世界系のサブ・プロットがあったのを思い出した。ネット上に当時の調査対象の痕跡が見つかるかどうか、今から調べに行ってこよう。 

砂漠はもちろん依然として、あるいはさらにその規模を大きくして、そこに存在しているが、アスリートや探検家でもないのに、あの砂漠を横断しようとしていた国際NGOの姿は発見できなかった。

OK。砂漠の話は後回しにしよう。

代わりに見つかったのは、ロンドン在住の発明家。十数年前は wired の翻訳記事一本だけだったので、英語サイトを探し回った記憶がある。日本語記事が増えて、彼の認知度が高まっているのが、自分のことのように嬉しい。ロンドンのテムズ川で船上生活を送っている風変わりな発明家のトレヴァー・ベイリスは、その発明がユニークでイノヴェーティヴなだけでなく、代表作の「手回しラジオ」のように、世界に遍在する「存在の格差」を縮小するように働きかける「ソーシャル発明」でもあるのだ。彼はエイズが蔓延しているアフリカの人々を助けたくて、その発明に着手したのだそうだ。

(震災後に日本でも「手回しラジオ」が普及した。老発明家は特許がうまく機能しなくて怒ってるらしい。発明工房には手作り感が満ちあふれている)。

Trevor Baylis - Wikipedia

自分が15年前くらいに注目していたのは、トレヴァー・ベイリスの 「発電靴」だった。 

15年前に読んだ記事がまだ www に残っているのは嬉しい。しかし記事から約10年後には、より発電力に優れた技術革新が起こったようだ。

 シューズ1足分では発電力が乏しいという難点は、歩く人々を数百倍にすることで乗り越えられようとしている。動き出しはロンドンが早かったが、東京の駅通路でも実験が行われていたはず。

よく知られているように、日本の電気料金は国際的に見て高止まりしており、国際競争力を大きく毀損されている。

① 家庭用の電気代は、アメリカの2倍、韓国の3倍。
② 産業用の電気代は、アメリカ、韓国の2.2倍。
③ ドイツの電気代は高いと言うイメージがあったが産業用では日本の方が高い。
④ 産業用の電気代では、原発大国フランス、ドイツ、スペイン、自然エネルギー大国のデンマークはほぼ横並びで変わらない。
⑤ イタリアの産業用の電気代が異常に高いのは、イタリアは産業用と家庭用の電気料金が一緒のため。
原発のシェアが低いアメリカが電気料金が安く、原発大国フランスも比較的電気料金が高いことから、世界的に見て原発の発電コストが安いとは言えない。
⑦ 日本よりも家庭用÷産業用が高い国は沢山ある。

日本は、電力の自由化がされている産業用については、安く電気を供給し、利益の大半は家庭から取っていることが明らかとされております。 

世の中の不思議をHardThinkします:実際にデータを見てみよう⑩日本と世界の電気料金の比較、やはり「高過ぎる日本の電気料金」を是正しましょう!

3.11東日本大震災以降、電力の自由競争と安定供給を両立できる「発送電分離」の機運が高まったが、潰されつつある。元々の仕掛人は、元経産省官僚の古賀茂明。現場報告を読むと、聞きしに勝るクレバーで仕事のできる人であることがわかる。

[引用者註:発送電分離は] 電力会社からすればとんでもない話である。癒着している通産省でも、発送電分離の実現はむずかしい。

 そこで、OECDが日本に勧告するという作戦で、そうなるように動いた。(…)検討段階での予想記事なら扱いも大きくなるし、国内の準備も整っていないから、ショック療法としては効果的だ。

(…)正月はニュースがない。記事はたしか、一月四日の朝刊に、「OECD」が規制改革指針 電力の発電と送電は分離」と大きく載った。(…)年頭の記者会見で、佐藤信二通産大臣が前向きなニュアンスで答えたものだから、大騒ぎになった。(…)私は「動いたな」と手ごたえを感じた。

 通産省ではすぐさま犯人探しが始まり、(…)「古賀しかいない」となり、(…)「資源エネルギー庁の○○さんが本気で古賀さんを帰国させて即クビにする、といっています。古賀さん気を付けてください」と、通産省の改革派の課長補佐から電話があった。  

日本中枢の崩壊 (講談社文庫)

日本中枢の崩壊 (講談社文庫)

 

 ところが、「宗主国」アメリカの息のかかった原子力ムラの暗闘力は、凄まじく強い。テレビ向けにわかりやすくまとめてある以下の古賀茂明の解説は、ほとんど死角のない正論にしか見えないが、ここでも『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』問題へ突き当たってしまう。 

ひとつヒントになるのは、働きかけても「発送電分離」が進まないのなら、「電民分離」を進めてしまおうという動きだ。すでに数多くの大規模会社が「割に合わない」という理由で自家発電施設を導入し、結果的にその自家発電コストとの競争が働いて安いまともな電気料金を勝ち取ったことが参考になる。 

有力なのは、あらゆる排熱を電気に転換できるスターリング・エンジンだ。他にも用水路などで常時発電できる小水力発電など、大規模送電網に頼らなくてもすむ発電方法はいくらでもある。そして、重要なのは、国民が国家的な巨大システムに依存しないことが、トレヴァー・ベイリスの手回しラジオと同じく、災害時の早期復旧に大きく役立つことだ。(この周辺はもう少し調べてみたい)。

 さて、発電靴はわかったから、その靴とサッカーと砂漠がどのように結びつくのかを、早く教えてくれ、という声が聞こえる。

そうだった。いま検索して出てこなかったのは残念。15年前、アンゴラの対人地雷問題を訴えるために、或るNGOが確かナミビ砂漠の横断を企てているのを、どこかの英語サイトで見つけたのが、発想のきっかけだった。

主人公の友人の女の子が、勇敢にもそのキャンペーンに参加して地雷廃絶を訴え、しかも発電靴を履いて砂漠を横断しながら、その砂漠の風景を撮って主人公にメール送信するというサブ・ストーリーだったはず。

メールを受け取った主人公は、アンゴラの地雷問題の深刻さを知る。そして検索先で、何人もの少年たちが松葉杖をつきながら、それでも路上サッカーに熱中している画像を見て、W杯という世界的な華やかな祝祭から外へ弾かれたKが「BOA SORTE(=Good Luck!)」を口癖にしていたこと、不条理にもW杯から排除されたKが、在ブラジル経験などで培われた豊かな国際経験から、当時華麗とも言われたあの足技を駆使できることが、どれほど幸福かを知っているにちがいない。そんな風に書こうとしていたように記憶する。

 この未完の小説には、個人的な事後譚がある。同一人物ではないが、やはり豊かな国際経験を持つ世界的なサッカー選手が、自分が書き上げられなかった小説の代わりであるかのように、地雷で苦しんでいる子供たちを訪問してくれたことが、何だかとても嬉しく感じたのをよく覚えている。 

サッカーを通して引退した現在も世界各地で活躍している元プロサッカー選手の中田英寿氏も、ここ地雷博物館に訪れて子供たちと一緒にサッカーを楽しみました。

そのHPに記されているように、そこには「世界のヒーローベスト10」に選出された人物がいる。それは、華やかな祝祭の中心に立ったことはなくとも、クメール・ルージュの子供兵から出発してやがて改心し、地雷除去、孤児の引き取り、地雷博物館運営に生涯を捧げたアキーラその人だ。

さて、アンゴラの地雷廃絶キャンペーンで砂漠を横断した彼女は、発電靴の電力を使って、どんな「世界の果て」の写真を撮ったのだろうか? これをどんな写真になするべきか、その写真をどのように描写すべきかに、かなり頭を悩ませた。

砂漠なんて、どこまでいっても砂一面の砂漠ではないか。そう思う人も多いだろう。しかし、実際はそうとも限らない。自分が彼女に写真を撮らせたかったのは、砂漠を撫でるように過ぎていく朝霧。

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霧になぶられて立っている旅団の人々の頬が、砂粒にまみれていて、その砂粒が霧の湿度と朝の光にわずかに輝いている様子を、「世界の果ての風景」として、彼女に撮らせたかった。

それを受け取った主人公は www...

いや、笑いはしない、決して。worldwide web ならぬファインダー越しの worldwide wonder の風景を見て、深い感動を覚えることだろう。世界の果て、夜の果てのような砂漠であっても、人が旅してそこに立つ限り、生命の脈打つ光がある。そんな風にまで、感慨を押し広げていったかもしれない。

 今日この記事を書きながら、自分の思想的ルーツについて考えさせられた。これまで現代思想を引用しながら書いてきたことに嘘はないが、それは自分が大学で受けた感情教育(『早稲田文学』的なもの)に由来するところが大きい。しかし、ルーツはそれ以前の根元に近いところへも伸びているはずだ。

 たぶん2003年に書いた処女ブログのどこかに、「デリダにきつく批判された後のレヴィナスは面白い思想を展開している」と書いたように記憶する。著作でいうと、それは『存在するとは別の仕方で』のポスト存在論を指している。

そこでの「可傷性 vulnerability」という概念が、自分の存在の強いところに響いているのをずっと感じていた。デリダによる批判以前のレヴィナスは、感受性を享受(楽しみや満足)に結びつけていた。しかし、それでは、あの圧倒的な他者の「顔」に接して、それを無視できないことの説明が付きにくい。『存在するとは別の仕方で』では、その「可傷性 vulnerability」から責任が発生するとレヴィナスは強調し始めた。

自分は感受性の強い気質だ。他者の「顔」にある無防備潜在的な「傷つきやすさ vulnerability」を、自分と同じ傷つきやすさを持つ存在として、どうしても無視できないところがある。無視できないどころか、しばしば共苦を感じて、他人事ではないような感覚になって、ぼろぼろと落涙してしまう。

そして、その「傷つきやすさ vulnerability」の痛みの感覚が、すでに亡くなった死者や未生の他者など、「欠席裁判」における欠席中の弱者や他者へ向かうところに、自分の思想的琴線があるのだと思う。 

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

 

 これまでも楽だったと感じたことはないものの、今後も楽ではない人生が続くだろうなという予感だけがある。乗り越えようと試みるしかないと考えている。

Only dead fish flows with stream.

潮に流されて泳ぐのは死んだ魚だけである

 ――Trevor Baylis