Road of Resistance

!少し古い話になる。5月に広島を訪れたとき、原爆ドーム沿いを流れる川の「折り鶴フロート」を観に行った。 

原爆ドームと、元安川に浮かぶ折り鶴フロート

 夕刻、「わくわく号」という名のティーカップ状のエンジン付きボートがやってきて、川岸においてあるロープでつながった折り鶴たちを、川の中へ曳きこんでいった。定位置へポジショニングを調整するのに苦労しているようだった。さらに、定位置から動かないようにする必要もある。

十数人集まっていた若いボランティアスタッフたちが、「やはりアンカー(錨)じゃないっすよね」「何たって漬物石が最高ですよ」と笑い合いながら談笑していたのが、折り鶴そのものより、或る意味では美しかったかもしれない。ボランティアで休日を潰して集まって、それ以上だと信じられることに時間や労力をかけられる若者たちが、少なくともこれだけはいることが、なんだか嬉しかったのだ。こういうところが、戦争の記憶の火を継ぎつづける広島らしさなのだと思う。

(ひょっとしたら、あそこで頑張っていたのは、こちらのNPOだろうか)。 

http://www.gangi.jp/kigyo.html

上の記事で書いたインパール作戦に代表されるような戦争の悲惨さを、どのようにすれば後続世代が我がこととして受け止められるのか。これは誰もがにわかには正解しがたい難問中の難問だ。誰もが戦争を映画やテレビや本の中の話だと思っている。

『心臓の二つある犬』の中では、まず機内で遭遇した旧日本軍の老兵をきっかけにして、路彦、琴里、シニャック(真哉)に議論をさせた。 

 現在の平和の捨て石、繁栄の礎。戦死した日本兵を、老人はそんな風に讃えたように記憶する。戦前戦中世代はもとより、復員兵が「功労者」説の立場をとるのは珍しいことではない。白骨街道を敗走する老人の話の凄惨さにすっかり圧倒されていた路彦は、特に引っ掛かりもなく追認して、離れたところにある空席を占領して並んで機内食を食べていた仲間に伝え聞かせたのだが、シニャックはそれを許さなかった。猛然と噛みついてきた。
「待てよ、功労者なわけないだろう。歴然たる加害者だよ」
「でも戦前の日本と戦後の日本はひとつながりの『連続体』だ。今の日本があるのは:」
「おい、待てったら。正気か。加害者だったという歴史を修正したいのか。路彦がそんな自民族中心主義者だったとはがっかりだな」 とシニャックは侮蔑を隠さずに大架沙基に鼻を鳴らした。 「あいつらがアメリカにあんな無謀な戦争を仕掛けなければ、満州や朝鮮や台湾は、日本の植民地のままだったんだぜ。日本軍こそが、功労者どころか、国益を損なった売国奴だ。尤もこれは、恥を忍んで路彦と同じ自民族中心主義者の立場に立って言ったとしても、という仮定の上の話だが」
 そんな露骨な物言いで急に険悪になってきた議論に、柔らかく水を差したのは琴里だった。それよりも被害者だったと考えるべきじゃない? 彼らが戦争のせいで生命を落としたのは確かなんだから。「あのときわたしが『被害者』説を言い出したのは、あの場で議論に勝ち負けがつくのが厭だったから。ディベートをやったら誰も真哉くんに敵わないのはわかってるし、戦後生まれの私たちが、喧嘩までして結論を出すべき問題じゃないわ、あれは」
 被害者という言葉には、何と甘美な響きがあることだろう。琴里が持ち出したその一語がよく効く鎮痛剤のように各自の心に行き渡って、その場の空気をふわりと和らげたのを路彦は憶えている。

真面目でナイーブな理系の路彦が、素直に「戦死者=功労者」説の立場に立つと、世界市民コスモポリタン)で左派のシニャックが「加害者」説をふりかざして、猛然とそれに反論する。そこへ、周囲の空気を和らげるのが上手い琴里が「被害者」説を持ち出して、険悪な雰囲気を中和しようとする。三人の立場は明らかになるものの、この「何者論争」の結論は出ない。それもそうだろう。旧日本軍の死者は、その三者どれをも兼ねているのだから。
 理系で若手の医学研究者である路彦は、しかし、論争達者で頭脳の犀利なシニャックの弁舌にすっかり圧倒されてしまう。

しかし、席替えした後も鉾を収めようとしなかったのは、シニャックの方だった。路彦はもう取り合わなかったが、おれは侵略者とは「連続」しない、とか、路彦が「連続」を言うのなら、おれにも言わせろ、自民族中心主義はほぼ確実に自己中心主義と「連続」しているものだぜ、とか。成田に着陸した直後にも、路彦に或る旅行記を投げつけるように渡して、ムンバイへ行くべきだったな、おれたちも、と捨て台詞を言ってきたが、路彦はそれを無視して、別れの挨拶もせずに、旅仲間からひとり離脱して旅を終えたのだった。その背中に浴びせられたのは、こんな台詞。路彦は、ムンバイで赤ん坊の頃にマフィアに誘拐された挙げ句、手足を切断され、眼を潰されて、物乞いさせられ続ける子供たちとは、なぜ「連続」しようとしないんだ? まさか、人権を侵害されるアジア人より、日本人が優等人種だからとでもいうのか? そんな偏狭な差別的感覚を棄てるために、おれたちは長々と旅をしてきたのじゃなかったのか? 

  こういう種類の正しすぎる正論をぶつけられると、ほとんどの人は沈黙してしまうのではないだろうか。あまつさえ、この議論の敗北以来、旅先では路彦の恋人だった琴里は、友人間移動をして、シニャックの彼女になってしまうのである。原因不明の最愛の女性の友人間トランジット。この手痛い失恋の傷が、この論争について、路彦が何度も反芻して考える原動力になる。

「6年も前のことを、どうしてそんなに克明に憶えているの」

 路彦は自分の顔が無防備な裸の表情になって歪むのを感じた。絶対に言うまいと心に誓っていた台詞が、窓ガラスに永らく付着していた雨滴が新しい一滴で繋がれて流れ落ちるように、自然に口をついて出た。

「何度も旅の記憶を思い出して反芻したんだ。きみが急にぼくの前から姿を消した理由が、あの旅のどこかにあったんじゃないかと思って」

 では、ひとり熟考を重ねた路彦は、どういう思想的な境地に到達したのか。あのように不器用な漸進を重ねたことが、彼を比較的見通しの良い場所へ連れて行った。つまり、左翼か右翼かの「壁」のない場所に。「旧日本兵の戦死者たちが何者であるか」という問いの立て方が間違っていることに気付いたのである。戦前の1927年、客観的な第三者、つまり純粋なthe third party はもはや存在しえないことを、量子力学が証明している。客観的に戦死者が何者であるかよりも、「自分は死者たちとどのような関係を結んでいるのだろうか」という問いへ移行すべきなのである。

 とぎれとぎれの訥弁を繰り出しながら、自らの存在論的な基底を確認するこの部分が、水没車中からの脱出より、はるかにクライマックスという語にふさわしいと、作者の自分は感じている。

 彼はこくりと頷いた。頷いた後になって、まだ何かが違っているような気がして、喉元へ込み上げてくる不定形の言葉の纏れを声にしようとした。犠牲が… 犠牲を… 彼女が穏やかに声を掛けて、彼の喉の詰まりが言葉になるのを助けようとする。犠牲を、あなたは、どうしたいの?

「忘れたくない。犠牲者から正(プラス)の利得だけを我が物にして、残りの負(マイナス)の遺物には蓋をして、忘れ去ってしまったら、自分の存在が駄目になる気がするんだ。ぼくの中ではやっばりすべてが連続している」

 星を指呼して、その輝かしい光の粒を他人と共有することはできる。けれど、どのように言えば、自分にしか見えていない星座線を、他人に伝えることができるだろうか。

「連続しているんだ。幼い頃に屠殺される食用牛の映像を見て嘔吐したことも、シニャックの『大死』発言に激しい怒りを感じたことも、いま不要な実験で死んだ犬を手ずから葬りたがっていることも。ぼくが手足を切断されず、眼を潰されずに生きているのは、国の統治機構に守られているからだ。その限りにおいて、ぼくはこの国が存続するために避けられず犠牲にした負の遺産を記憶しておきたい。ぼくが個人的に研究医として生きていけるのは、犠牲になっていく実験動物たちの生命のおかげだ」

 路彦は俯いて自分の両の手のひらに視線を落とした。無名の犬の切開部に開創器を突っ込んで裂き広げたときの、繊維がばちばちとちぎれていく感触を思い出したのである。これまで動物に加えてきた数限りない殺傷行為は、彼の優しい心をも同時に深々と傷つけていた。

「この犬の存在を… だから… ぼくは… 少なくとも『個人的』に…」と路彦が薔薇の茎を無理に呑み込むかのように、痛々しげに嚥下を繰り返す。喉元まで上ってこようとする悲痛な嗚咽の生々しい塊を呑み込もうとする。「せめて憶えておきたいんだ。痛みとともに」
 イタミ、と琴里が感受性の深そうな彫りの複雑な横顔で復唱する。彼女の言語感覚は、同じ音声を「悼み」という漢字に変換したのかもしれない。路彦はようやく胸の痞えを解きほぐすと、最後の言葉の塊を苦しそうに吐き出した。
「いや、憶えておくだけじゃない。どんな形でもいいから、とにかく、生かしたいんだ」 

 (小説のクライマックスについては、この記事でも取り上げた)。

「国の統治機構に守られている限りにおいて、この国が存続するために避けられず犠牲にした負の遺産を記憶しておきたい」。路彦のこの文言に、左翼右翼の区別は不要だろう。思想や歴史に通暁した文系のシニャックと比べて、理系の路彦は遅れを取る。しかし、遅れを取るからこそ、足元が駆けだす前の地面に残って、素朴で直感的に伝わる「存在論」を組み上げることができる。「犠牲者から正(プラス)の利得だけを我が物にして、残りの負(マイナス)の遺物には蓋をして、忘れ去ってしまったら、自分の存在が駄目になる気がする」。この直観も、思想史的にはさしたる根拠のない直観ではあるが、それが食用牛を媒介に生命に直結することで、存在論の高みへと到達する。私たちが犠牲なしに生存できないなら、その犠牲にどんな思いを抱くべきなのだろうか。

 戦死者たちが残した負の遺産

それはそれを「終戦」ではなく「敗戦」と呼ぶとき、もっとも広く深くその領域を捉えることができるものだが、現今の日本で最も重要なこの基盤にも、やはり左翼右翼の壁はありえない。

 先鞭をつけたのは、元々建築家志望だったせいで、アメリカの対日要求リストである年次改革要望書に、新鮮な着目を注ぐことのできた関岡英之。その年次改革要望書そのままに日本が改造されつつあることにも驚くが、関岡英之自身も驚くように、日本の諸マスコミが、この「内政干渉」文書についてまったくまともな報道をしていなかったことにも驚かざるを得ない。すでに当時から、隠然たる「侵略」は進行していたのだ。

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる (文春新書)

 

その右派的文脈からの対米自立路線に、 沖縄での不条理な基地支配の現場から外交文書を洗い上げた左派系の矢部宏治が合流した。日本が真の独立を勝ち取るのに、左翼右翼は関係ない。というより、この国に限っては、左翼右翼の対立は、日本を支配しようとする1%グローバリストたちの分断統治ツールでしかない。

知ってはいけない 隠された日本支配の構造 (講談社現代新書)

知ってはいけない 隠された日本支配の構造 (講談社現代新書)

 

 わかりやすいイラストを見つけた。 

f:id:tabulaRASA:20170910055213p:plain

お、「人間の羊」こと、sheepleの方が迷っておられるようだ。書かれてある通り、どちらを選んでも貧困と格差の連鎖。1%対99%の戦いにおいて、左翼右翼どちらを選んでも行先は同じなので、左翼右翼の派閥対立は、もはや1%による分断統治ツールとしてしか機能しないのである。(出所はコチラ) 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

 左翼や右翼の壁を越えて、(外国勢力ならざる)この国の人々が、永続敗戦構造を克服すべく闘うためには、まず思想的基盤を共有しなければならない。その思想的基盤を対米自立型保守の名のもとに何度も語ってきた。

この記事では、少し別の切り口を考えてみたい。

憧れの女性ブロガーから2005年くらいに勧めてもらった月曜社の本がある。既読ではあったものの、自分の好きな本を勧めてもらえたということは、自分のことを理解してもらえているということ。嬉しかったのを憶えている。 

文化=政治  グローバリゼーション時代の空間叛乱

文化=政治 グローバリゼーション時代の空間叛乱

 

 この本でも「サウンドデモ」として言及されていたが、政治運動を盛り上げるには、四角四面のインテリしか語り得ない政治談議ではなく、「何か楽しいことをしている」「何か良いことをしている」というふんわりした高揚感が必要だろう。私たちはそのような時代を生きている。

そこで、左翼右翼の壁を取り払った対米自立型保守を声高に主張するだけでなく、この国の99%による闘いの聖なる応援歌として、個人的にこの曲を推奨しておきたい。

 上の記事でも紹介した Baby Metal の最高傑作 Road of Resistance。音楽的アイディアが満載で、約8分をまったく飽きずに聴かせてくれる。

イントロのギターは自分が思春期に愛聴していた早弾きギタリストの名曲のサビに似ていなくもない。久々に聴いて心の琴線が震えたぜ、様式美。

歌詞が無色透明で左翼的でも右翼的でもないのが良い。わずかにあるのは「正義」の一語。あとは、Resistance, Resistance, Resistance! だ。

注目すべきは、1:02から Su-Metalのパントマイム。今まで開かずの扉かとも思われていた重すぎる鋼鉄の扉がわずかに動き、縦に一線の輝かしい隙間が走ったかと思うと、その鋼鉄の扉が、重々しい音響効果とともに、とうとう開かれる。嗚呼、扉を開くときのSu-Metalの凛々しさよ。

その数秒後に、開かれた扉を駆け抜け、馬に猛然と鞭を当てて、勇ましく疾駆する少女たちの姿が美しい。3:33からダウンテンポで繰り返す観客との熱唱も、聴く者のハートの温度を高くしてくれる。暗闇の中にいた私たちは、光に似た裏真実の情報を得て覚醒し、とうとう光のあたる世界へ出られたのだ。

ちなみに、センターで声量豊かなヴォーカルを披露している凛々しい美少女は、広島出身だ。

人それぞれに、音楽の好き嫌いはあることだろう。しかし、この国でまともな人生を送ろうとするなら、否応なくこの道を歩いていかなければならないのは確かだろう。

ともに歩いてはいかないか、Road of Resistanceを!