声を聴きつづけ、越えつづける

ここで紹介した heavenly voice の持ち主 Kirsty Hawkshaw を最初に知ったのは、彼女が King Crimson をカバーしたときのこと。アルバムを買った記憶はあるが、典型的な天使らしい容姿とは異なるベリーショートとユーロビート全開の打ち込み音が、自分からは遠いところにあるように感じた。すぐに忘れてしまった。今から四半世紀ほど昔の話だ。

個人史的に言うと、その頃は野田秀樹が作った伝説の駒場小劇場で、学生演劇に熱中していた時代。劇場に泊まり込んだりしながら、夢中になって前衛寄りの小劇場演劇を作っていた。劇団は無名だったが劇場が有名だったせいで、後輩のプルピーに「オアシズのOLの方が見に来ていますよ」と耳打ちされたような記憶もある。普段は別の女子大で稽古して、上演が近づくと駒場へ乗り込んだ。すでに駒場寮ともども駒場小劇場の取り壊しが取り沙汰されていて、劇場近くのアジ看板には、「ふざけるな、でてこい、蓮実重彦教養学部長!」といった文句が、奇怪な字体で朱書されていた。

作・演出・主演で打ったその芝居の内容を要約するのは難しいが、ヘッセ『車輪の下』的主人公の少年が約束に遅れたことで、ヒロインの少女が怪人20面相一味やらサルバドールダリやらに狙われて、明智探偵率いる少年探偵団の助けを借りつつ、車輪の下(ゲ)経由の「ゲゲゲの鬼太郎」、車輪の上(ジョウ)経由の「あしたのジョー」らも関わっての大混乱の大闘争の中、主人公の少年が誤ってヒロインの少女を刺殺してしまうも、世界の時の流れを何とか止め、時間の円環の上(車輪の上)を少年が少女との約束を果たしに際限なく走っていく、という脚本だったはず。

駒場小劇場に憧れていた少年が、「カリオストロの城」的主題を、精一杯野田秀樹的手法で分解して再構成した演劇だったと言ってもいいかもしれない

芝居のラストシーンで使ったのが、キング・クリムゾンの「PeaceーAn End」という曲。歌詞が哲学的で、リバーブのかかった声が宙空に消えていく最後が気に入っていて、今でも一番好きな反戦歌だ。

この曲を聴くたびに、舞台上で絶望の果てに倒れ込んでいた自分が、ふと魅入られるように虚空を見つめ、「虹が見える」とかすかな声で呟く場面を思い出してしまう。 

Peace is a word
Of the sea and the wind.
Peace is a bird who sings
As you smile.
Peace is the love
Of a foe as a friend;
Peace is the love you bring
To a child

平和とは
海や風の言葉
平和とはきみが微笑んでいるときの
鳥のさえずり
平和とは
敵を友に変える愛
平和とは
あなたが子供たちにそそぐ愛

Searching for me
You look everywhere,
Except beside you.
Searching for you
You look everywhere,
But not inside you.

ぼくを探して
あなたはあらゆる場所を探すけれど
そばにいる人が見えていない
自分を探して
あなたはあらゆる場所を探すけれど
自分の内面が見えていない

Peace is a stream
From the heart of a man;
Peace is a man, whose breadth
Is the dawn.
Peace is a dawn
On a day without end;
Peace is the end, like death
Of the war.

平和とは
人の心からあふれだす小川のような流れ
平和とは 
その広い心に夜明けのある人々のこと
平和とは
終わりなく日々訪れる夜明け
平和とは
戦争が死に絶えるという意味の終わりのこと

 さて、そのような20歳前後の記憶の蘇りに苛まれつつ、図書館の本棚の前でふと手に取ったのが、この本。これもとても懐かしい。 蓮実重彦も月報に文章を寄せている。

 1巻が渡部直己、2巻が島田雅彦、3巻が奥泉光がそれぞれ解説を担当している。偶然ではあるが、20代の頃の自分はこの3人全員とお話しをさせてもらう機会に恵まれたのだ。

渡部直己による一巻の解説がいつも通りの面白さだ。後藤明生が依拠した「楕円原理」がテクストに強く波及しているので、「真の主役」は登場人物たちではなく「関係そのもの」だとしながらも、事態がその次元には収まるなら話は特記に値する事態ではないと筆を進めていく。

人物らの<関係>に、特定の方向やアクセントを与えるというだけなら、他の作家にもありがちな組成原理の域を出ないからだ。後藤明生の作中にあって異数なのは、原理じたいが何のこだわりもなく、適用次元を進化させる点にある。この磊落な弾み!

小説内の夥しい情報が透明な複数のレイヤー上に、或る高低差をもって配置されているのを読み取り、その複数のレイヤーを跨いで登ったり降りたりしている巨大な昆虫のような「構造」がうまく読み取られている。例えば、同じ後藤明生を論じて、伝記的事実と歴史的事実の作品中への反映を元に、「引き揚げ者の文学」と措定する近著よりも、渡部直己の批評の方がエントロピーが高く、スリルに満ちているように自分には感じられる。

20年くらい前のことだろうか。お話しさせてもらっている間に、渡部直己にずっと聞いてみたかった質問を訊くことができた。それは蓮実重彦の『小説から遠く離れて』が天皇制を扱っていることをどう評価すべきかという問いで、自分の訊き方が悪かったせいか、話はバルトの『表徴の帝国』の「空虚な中心」論へと発展してしまった。のちの傑作『不敬文学論序説』の作者でさえ見えていないということは、ここは自分が書かねばならないのではと感じて、試行し始めたのが、この草稿だ。

 ただし最近、自分がこれまで一貫して批判してきた「漱石=猫」主義について、様々な状況論的要請からポストモダン化圧力に自発的に屈服したため、犬で始めたこの批評に、急遽萩原朔太郎猫町」を導入せねばならないかもしれず、執筆完了の目途は立ってニャイと言うほかない。

10年以上前にこの記事を書いたときは、実は「前田塁=市川眞人=マコト先生」という等式を知らなかった。一読して渡部直己フォロワーの「早稲田文学」周辺出身の有望新人に違いないとわかったので、あのようにエールを送ったわけだが、予想的中ではあったものの、まさか友人の友人だったとは。

前田塁は上記の拙文に応答するかのように、次号でロブ=グリエの『迷路の中で』の一節、少年が兵士に「そんなところで寝ちゃだめだよ」という言葉をエピグラムに掲げてくれたように記憶する。

どうして彼は、私の卒業論文対象小説を知り、かつ、私が「月の二つある世界」に幽閉されていることを知っていたのだろう。それとも私は戦後最も有名な無名作家志望なのだろうか。またしても「関係妄想」かもしれないが、もしその応答が事実なら、感謝申し上げたい。

その前田塁が今から8年前に「一九八九から遠く離れて」という論考を発表したので、かなり楽しみにして読み通した。けれど、相変わらずの聡明さとブリリアントネスを感じさせてはくれたものの、『小説から遠く離れて』の急所を外している感は否めなかった。

それほど難しい話ではないと思う。

 河出文庫でいうと、P206にある記述が、うまくコントラストを描き出しているのではないだろうか。

(…)たとえば第三の新人と呼ばれる一群の小説家たちに主要な題材を提供したものが、近代的な都市生活の中で孤立化する核家族という小宇宙の中での父、母、子の葛藤であったという現実から、大江や中上の小説がどれほど遠いかを考えてみれば明らかだろう。

小説から遠く離れて (河出文庫)

小説から遠く離れて (河出文庫)

 

 第三の新人が抱えているのがエディプス・コンプレックス的三角形で、大江や中上が抱えているのが神話的三角形。神話的三角形は、頂点に君臨する「黒幕」へ、双生児的二者が抵抗するという共通構図を描いている。その黒幕のありようを記述したp.203の言葉に注目してほしい。

この類似が、二等辺三角形の頂点に位置する父親の性格を規定することになる。「蝿の王」と名ざされ、「父=神主」と呼ばれたりもする父親は、この二編の小説に限ってみると、あくまで宗教的な存在であり、共同体の外部から訪れ、その神話的な過去への信仰を組織する祭司としての父というイメージが、征服によって権力を得た覇者のそれでないことは明らかだろう。

この数行に「天皇」の二文字を読み取らずにいることは、ほとんど不可能だ。

中途で擱筆してある自分の文芸批評には、あの論旨の先で桐山襲の『パルチザン伝説』を論じようと考えていた。ほとんど誰も読んでいないはずだと確信していたあの小説が、喜ばしいことに、何と今月再版されたようだ。 出版社提供の作品情報を引用しよう。

アジアの犠牲の上に成り立つ平和と繁栄を破壊するため、僕と仲間たちはその象徴たる天皇の暗殺を企てたが、失敗に終わる。代わりに経済侵略の急先鋒だったM企業を爆破するが、その後の路線対立で僕はグループから離脱。ひとり爆弾闘争を続ける中で片手片目を失い、地下に潜行することに。沖縄の離島へ流れ着いた僕は、逃亡生活の直前に母から受け継いだ一通の手記から、謎の失踪を遂げた父の驚くべき来歴を知るのだが…。繋がっていく戦時中の父と、戦後を生きる自身の姿、そして浮かび上がる日本という国家のかたち―文学的想像力の奇蹟的な到達点を示す伝説の作品、ついに刊行!

パルチザン伝説

パルチザン伝説

 

 蓮実重彦の『小説から遠く離れて』は、実力ある作家たちの小説群が、説話論的観点から見て、アレも似ている、コレも似ていると、賢しら顔で列挙することに終始した批評では断じてない、というのが私見だ。ひょっとしたら無限に続きかねないその共通構造保有リストが、いったい誰の小説をもって、さしあたりピリオドを打たれたか。そこに注目すべきなのではないだろうか。

P.267でその最後のリスト項目について、こう書かれている。

 たとえば、長編というよりは中編小説に分類されるべき作品だが、桐山襲の『パルチザン伝説』などがそれにあたるだろう。(…)もちろん、この兄弟は共通の「黒幕」ともいうべき存在に戦いをいどむ。それは、「<父たちの体系>の頂点ともいうべきあの男」に対する戦闘となるのだが、それは、「戦中と戦後を生きたすべての『大人たち』の最も見事なモデル」としての「あの男」を否定することにほかならず、その否定こそ「僕たちの世代のまぎれもない義務」だと思われたからである。

 ここで言及されている「あの男」が誰なのか、もはや贅言は不要だろう。

このような読解に、もし前田塁が幾許かでも価値を感じられるなら、私のクレジットなしで自由にご活用いただいてもかまわない、と友誼を込めて付記しておくことにする。

 睡眠もそこそこに、調査時間や読解時間もそこそこに、これまでこのブログ上の百夜一夜をずっと走ってきた気がしている。19歳のとき、舞台上の自分が絶望の果てに見つけた虹は、今ここで見えているのだろうか。目隠しされている身では、それすらもよくわからない。

虹はあるのか、あるとして辿りつけるのか、辿りついたとしてそれは現実の手につかめるものなのか。これらすべての問いを宙吊りにしたまま、足元にある障害物を一歩一歩乗り越えていかねばならない。

何らかの声を聴きつづけ、応えつづけるために、越えつづけなければならない。その困難の感覚だけが、いまの自分にとっての最大のリアリティだ。

 

 

 

君の足にからみつくのは何 劣等感?
それとも不調和な日々に芽生えた違和感?
空虚な空 気が付けばほらうつむいて
一人ぼっちになってたいつかの帰り道

 

特別なことではないさ それぞれ悲しみを抱えてんだよ
自分次第で日々を塗り替えていける

 

誰の心の中にも弱虫は存在していて
そいつとどう向き合うかにいつもかかってんだ
そうやって痛みや優しさを知ってゆくんだよ
間違いなんてきっと何一つないんだよ

 

誰のせいでもないさ 人はみんな鏡だから
勇気を出して 虹を描こう

 

越えて 越えて 越えて
流した泪はいつしか 一筋の光に変わる

 

曲がりくねった道の途中で
いくつもの分岐点に僕らは出逢うだろう
だけどもう振り返らなくていいんだよ
君だけの道 その足で歩いて行くんだよ

 

遠回りしたっていいさ 時にはつまづくこともあるさ
でも答えはいつも 君だけのものだから

 

届け 届け 届け
暗闇の中で泣いてたんだね
希望を乗せ 空に響け

 

乾いた大地踏みしめる埃まみれのboots
与えられてきた使命(いのち)取り戻すのさroots
吹き抜ける風の中を 光と影を受け止めたなら
行こう君と

 

越えて 越えて 越えて
越えて 越えて 越えて
流した泪はいつしか 一筋の光に変わる
虹色の明日へ続く

 

雨上がりの空に そっと架かる虹の橋

 

雨上がりの空に そっと架かる虹の橋