未知の水脈をめぐる饒舌

 地政学から時政学へ。

そんな書名のついたポール・ヴィリリオの思想に、その昔ずいぶん惹きつけられていた。ヴィリリオによる「権力は速度を支配するもの手にある」という小気味よい断言は、テクノロジーの進歩と権力の「共犯関係」を暴いた新たな地平を切り拓いていた。

速度と政治―地政学から時政学へ (平凡社ライブラリー (400))

速度と政治―地政学から時政学へ (平凡社ライブラリー (400))

 

 実際に、自分も小説のこの部分を書いたとき、何とかこの一節がヴィリリオ的にならないかと悩んだ記憶がある。

車中に路彦の声が響いている。兜虫(ビートル)はフオルクスワーゲン製で… 造ったのは反ユダヤ主義者のフォードに心酔していたアドルフ… あのヒトラー?… そう… ヒトラーが「国民車(フォルクスワーゲン)」を提唱して、ポルシェ博士に作らせた… 国民から大々的に前払いを募って… あまりにも独裁者らしい姦計… 預り金のすべてを軍用ジープの製造に流用した…騙された国民は?… 時代は秘密警察(ゲシュタポ)のうようよいるナチス政権下だ… 直後、第二次世界大戦のドイツ軍による侵攻…真新しいジープの群れが隣国との国境を走り越えていった…

ヒトラーの詐欺に加担したフォルクスワーゲン社は、戦後の60年代くらいまでずっと訴訟を抱えていたらしいよ。戦時中に強制労働させた強制収容所の労働者や捕虜には、今世紀に入っても補償を続けている。まったく not so long ago な話さ」

ドイツの自動車の歴史を調べていて、世界一有名な制限速度なしの高速道路「アウトバーン」の起工式に鍬入れしたのは、ヒトラーだということを知ったのだった。尤も、そのアウトバーン自体は先行して起案した人物がいたのを、ヒトラーが横取りして、獄中で密かに構想を温めていた「総裁の道路」とナチス的宣伝をかけたのが真相らしいが。

ヴィリリオの用語の中で、いま最も輝いているのは「内植民地化」だろうか。自国を統治するのに、植民地に対する管理手法を用いること。私が「対米自立型保守」を顕揚するとき見えづらくなりがちな死角で、一部の仏文系好事家の独占物であるかのように扱われてきたヴィリリオが、依然として輝いていることが嬉しい。事態はアメリカの「植民地」の日本だけで起こっているのではない。偽旗作戦だった9.11世界同時多発テロ直後から、愛国者法などによって超大国アメリカ国内でも進行した民主主義や自由のなし崩し的な破壊を、ヴィリリオの「内植民地化」という鍵言葉以上に、早い時期から卓抜に言い当てていた思想家を、私は知らない。

しかし、(もともとは一種の軍事情報設備だった)インターネットの革新性が、私たちの知覚や風景を変容させていくさまを論じた『瞬間の君臨』あたりから、ヴィリリオの失速を感じた記憶がある。ネットによって様々な事物が「瞬時化」されてしまえば、速度の観点からは、それ以上の思想的発展は考えにくいからだ。

あるいは、ソーカル事件によって猖獗をきわめた「現代思想叩き」が、ヴィリリオらしい「速度学」の次の進展について、彼に標的になりかねない大々的な表明を噤ませたところも、多少はあったのかもしれない。

普通に考えて、「零度の速度学」の次に来るのは、(掛け合わせてもマイナスにしかならない)「虚数の速度」だろう。起点と終点を持つ速度ベクトルが「零」になってしまえば、それは事物がそこに生起することの始まりと終わりが消える。起源と身元を喪失した存在は「匿名化」され、その匿名化の汎用化による掛け合わせが、私たちの「生活世界」をどんどんマイナスしていく。事物の存在が匿名化されたばかりに、9.11的なマッチポンプまがいの偽旗作戦による戦争や自国内制圧が発生する一方、同じく「虚数の速度」に依拠したウィキリークスなどの告発メディアが、まだ i の掛け合わせによってマイナス化されていない存在を賦活していく。

こういったことは、すでにヴィリリオが主張しているのかもしれず、あるいは、同じような主張が、ソーカル事件以降「不倫の愛」とされる現代思想と数学との婚姻を伴わない形で言い換えられているのかもしれず、あるいは、すべてがかつての愛読者の imaginary な架空の思いつきにすぎないのかもしれない。 

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス)

 

 現代思想の本にコンスタントに目を通すようにしてきたせいで、思想本に最低限の基本的な理解を施すだけでなく、この思想は次にこのように発展しそうだ、とか、この思想家のAという概念は別の思想家のBという概念と同じだな、とか、或る程度は自分の頭で考えられるようになった。

といっても、それは将棋の素人が駒の動かし方と定跡をあらかた覚えて、プロの次の一手が時々当たるようになった、という程度の話にすぎない。

 例えば、一昨晩に言及した『複製技術時代の芸術』で、ベンヤミンアウラ喪失を悼んだのとは反対方向に、アウラ喪失後の社会の諸相を描き出したボードリヤールを準備したことくらいなら、その棋譜を自分も読める。

 しかし、最近の濫読や再読の中で、これにはまったく歯が立たないと感じて、自分の頭の悪さに絶望的な気分になったことがあった。以下、長いが引用する。

<真理の言葉>を使わずに<機能の言葉>の集塊で全体性を想像する作法は不安を呼びがちです。第一に、<真理の言葉>が唯一性(ソレしかないという性質)をもたらすのに、<機能の言葉>は偶発性ないし代替可能性(機能的等価なら何でもいいという性質)をもたらすからです。 第二に、<機能の言葉>の集塊が全体性を示すという根拠がないからです。

 再帰的近代では全体(選択できないもの)を部分(選択されたもの)に対応づけるアイロニー(ハシゴ外し)の作動が常態です。全体性を暗黙の前提(書かれざる囲い)とした視座(観察)は、暗黙の前提への視座(観察の観察)へと可能性を開きます。どんな観察も二次的視座(二次的観察)へと開かれます。永遠のハシゴ外しです。(…)

 このことを主題化した議論が1970年のハーバーマスルーマン論争(でのルーマンの議論)です。議論のルーツは「不可能性としての全体性」(不可能性としてのギリシャ)を主題化した初期ロマン派です。ちなみに「不可能性としての」が脱落すると後期ロマン派になります。この論争以降、批判理論は強力にバージョンアップします。

 例えばノルベルト・ボルツ(…)が推奨するのは「距離化総体からの距離化」です。直前の距離化を相対化するのでなく、距離化総体を観照する。目的は、「自在のデタッチメント」に代えて「コミットメントへの自由」(批判する自由)を推奨するためです。

 むろん「ハシゴ外しの忘却」ではなく「ハシゴ外しへの免疫化」によって「コミットメントへの自由」を擁護しようとするのです。相対化の無限背信ゲームがあろうがなかろうが、我々は「承認(ホネット)」の可能性を「信頼(ローティ)」して「全体性を志向する批判」(ハーバーマス) の駒を前に進めることができます。如何にしてでしょうか。

「意味地平を切り開く」(ホネット)という言い方にヴァルター・ベンヤミンの残響を聞き取れることがヒントです。ベンヤミンは諸々の「シンボル」に近代の制度的コスモロジーに貢献する「社会的=主観的」体験加工を見つつ、「砕け散った瓦礫」たちが一瞬の星座を形作る瞬間に「アレゴリー」を見出し、近代の牢獄を脱する通路として擁護しました。

 アレゴリーは寓意や寓話などと訳されますが、「<世界>は確かにそう なっている」という納得を与える瞬間です。寓意と言うと道徳的教訓話と思われがちですが、「<世界>は確かにそうなっている」との納得が事後にもたらす学びに注目した結果に過ぎません。シンボルは「事前決定的=規約的」ですが、アレゴリーは「事後決定的=非規約的」です。

 ベンヤミンは「砕け散った瓦礫の中を」という言葉で、過去から現在にわたって散らばる瓦礫たちが、束の間の関係を取り結んで生者の間に屍体として蘇り、予想せざる全体性が示唆される瞬間(確かに世界はそうなっている)に、身を晒せと推奨します。現実には我々は根拠もなくそのような瞬間があり得ることを先取りして日々前に進んでいます。

フレーム問題として知られるように、「事前決定的=規約的」に見えるシンボルを用いた指示でさえも、現実のコミュニケーション過程で指示内容を確定するには、無限の文脈を参照せねばなりません。その意味でわれわれのコミュニケーションは、アレゴリーによって曖昧に参照することしかできない瓦藤の海(全体性)に浮かぶ、いわばイカダなのです。
<真実の言葉>ではなく機能の言葉>の集塊が全体性を示唆する、と僕が言う際には、初期ロマン派を踏まえた批判理論第一世代(テオドール・アドルノベンヤミン)の顚倒を狙った第二世代(ハーバーマス)の顚倒を狙った第三世代(ホネット)以降今日に連なる議論、すなわちいま一度初期ロマン派へと立ち戻る議論を、踏まえていることになります。 

 ……。

文章は高速だがきわめて明晰なので、論理的つながりを丁寧に把握していけば、社会学専攻の大学生くらいなら、誰でも読めるのではないだろうか。ただ(盟友ショーレムも「あれはベンヤミン自身にしかわからない」と洩らしたらしいものの)、ベンヤミンの大作『パサージュ論』の迷宮のような訳の分からなさに呻吟した身としては、断章だらけのアレのどこを読めば、「機能主義的立場へのあえてするコミットメント」の根拠へつながる理路が見えるのか、不思議でならない。

数手先までしか読めない素人棋士が、50手ほど先の盤面をいきなり示されて、目を白黒させてしまう感じと言えばよいだろうか。このような思想的教養の縦横無尽の駆使を、先頃プロ棋士にも勝利し始めたAI(人工知能)に譬えるのは、失礼というものだ。AIにはこのような創造的な仕事はできない。

柄谷行人が使ったのとは別の意味で普及しつつある「シンギュラリティ」(技術的特異点)と、その偉業を名付けたくなる。シンギュラリティとは、いつか到来すると言われているAIのネットワークが人類を凌駕する日のこと。他の人間の誰もが束になってかかっても決して敵わないような凄味が、近年の宮台真司の著作にはある。

 さて、そもそもベンヤミン社会学よりも文学に親和的な思想家のはず。一介のベンヤミン好きとしてではあるが、自分の答案を書かなければならない。

 ベンヤミンの多様性は明らかに特定の立場への還元を拒んでいるが、初期の論考に注目すると、いくつかの手がかりがつかめないわけではない。

それは、ベンヤミンの「遡行癖」、言うなれば「逆ねじ性」だ。

たとえば「物語作者」の中で、ベンヤミンは口承の語り手が聞き手に物語Aを語り、その聞き手1が次の聞き手2に物語A’を語るとき、普通誰しも考えるように、物語Aをその局面での原型とは考えない。そこで物語A'の原型となっているのは、聞き手1が語り手から聞いた物語Aの「記憶」である。当然その記憶は、少なくとも細部においては忘却を伴っていることだろう。このような記憶と忘却が、個人に属するものではなく、共同体に属するものとしているところに、注意が必要だ。

プルーストの「無意志的記憶」についても、ボードレールの詩の叙情性についてもそうだが、ベンヤミン的な発想の基盤にあるのは、「失われた全体性」「忘れられた全体性」への遡行の欲望なのである。ほとんどの思想家たちが先人の思想の批判的継承を行ってきたことを思えば、ベンヤミンのねじだけが逆回転に刻まれているように読める。同じ電動スクリュードライバーを当てると、他の思想家のねじが勢いよく木材へ食い込んでいくのに対し、彼のねじだけがねじ穴から浮き上がってくるのである。ベンヤミンの唯一の完成された書物が『ドイツ悲劇の根源』と名付けられているのは、偶然ではない。

 では、先行する哲学に連ならない非アカデミックな方向へ遡行して、ベンヤミンが逢着しようとしているのは、どのような位相なのか。 

カバラとその象徴的表現 (叢書・ウニベルシタス 169)

カバラとその象徴的表現 (叢書・ウニベルシタス 169)

 

  それは盟友ショーレムカバラ神秘主義に近いところ。シュタイナーの人智学と淵源を共にしているところに、ベンヤミンの意外なアクチュアリティを求めたいというのが、その選択が成功するかどうかを知らない自分の選好だ。

wikipediaベンヤミンのシュタイナー嫌いの挿話が記述されているが、それが一種の近親憎悪でない保証はないし、逆ベクトルのシュタイナーによるベンヤミン評がうまく的を射ているのも確かだ。

ベンヤミンブレヒトに準拠して叙事的なものと概念化した中断の形姿の中でのみ唯一、孤立した人間は伝統への結びつきを維持しえ、そして唯一、中断という同様の法則に則って集団は叙事的なものの新しい形態をとって、伝統との連帯を、その生産的な生き残りという意味で獲得するのを希望できる。

http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170815001356.pdf?id=ART0009842275

 ここでいう「伝統への結びつき」とは、シュタイナーにおいては、自然や人間や事物のすべての存在に神が宿っているとした汎神論的「霊学」に、ベンヤミンにおいては、人間の言語と自然の事物それぞれが持つ言語が交響しあう「魔術的共同性」に、遡行的につながっている。

ベンヤミンに導かれて、いつのまにかロマン派から系譜を手繰ってドイツ神秘主義を長々と呼び寄せてしまったが、ここはドイツではなく日本。

シュタイナーの影響を受けたカール・グスタフユングを媒介にして考えれば、民族的共同性の深層へ分け入って近代の孤独の溶融を図ろうとした三島由紀夫(隠れユンギアン)と、現代の孤独な個人が心の奥に掘り下げられている井戸の深みで(他者や前近代的民俗と)つながっていることを主題にする村上春樹(公認カワイアン)が、かなり強い連関で繋留されているのがわかるだろうか。

おそらく、そこに日本の文芸批評が探しあてるべき未知の水脈がある。

 

(imaginaryでないものが賭けられているせいで消せない真夏の i といえば、この曲)

涙があふれる 悲しい季節は
誰かに抱かれた夢を見る
泣きたい気持ちは言葉に出来ない
今夜も冷たい雨が降る
こらえきれなくて ため息ばかり
今もこの胸に 夏は巡る

 

*四六時中も好きと言って
夢の中へ連れて行って
忘れられない Heart & Soul
声にならない
砂に書いた名前消して
波はどこへ帰るのか
通り過ぎ行く Love & Roll
愛をそのままに

 

こんな夜は涙見せずに
また逢えると言って欲しい
忘れられない Heart & Soul
涙の果実よ