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絞首台特急がすぎたあとの風の静謐

少年時代に天沢退二郎の「60年代詩」を愛誦した人間が、自分以外にいるのかどうかは知らない。希少な存在かもしれないが、きわめて短い一時期、あの童話の「光車」のごとく美しく禍々しく輝いていた天沢の詩の方が、希少な空前絶後の存在だった。

失神を繋いで飛ぶデッキから

白い少女ががらんどうの瓜を分娩する

その瞬間

空に貼られる街々

けものと走り抜ける少年

ひからない宝石がアスファルトを裂き

代りに死人たちの舌がいちれつ

ペーブメントのように鋲でとめられる

題名にある「旅」の一語が「水平移動」を予感させて始まり、非現実的な暗喩によるイメージの畳みかけが恐ろしい速度で明滅したあと、最終部分に差しかかって落ち着きどころを見つけて、詩は「眠り」に落ちる。

少年は毛のはえた舌の上で眠る

絞首台特急のジャズを耳に

 しかし、「眠り」のイメージによって詩がここで終わったとしても、少年の「旅」は終わらないのだろう。というのは「絞首台特急のジャス」の背景で鳴っている『死刑台のエレベーター』のイメージが、高速鉄道を意味する「絞首台特急」へ転換されているからで、あの「垂直落下」(主人公が人生上で転落)する乗物が「絞首台特急」に90度方向転換された以上、この少年はまだ「水平移動」の旅を続けざるをえないのだろうと、勝手に想像が広がっていく。

エレベーターと言えば、ここに書いた話に語り洩れがあった。

tabularasa.hatenadiary.jp

エレベーターを使ったトリックを語るなら、このドラマはリストアップしておかねばなるまい。

古畑任三郎事件ファイル−episode26/古畑任三郎 vs SMAP

江戸川乱歩の『三角館の恐怖』と同じく、エレベーターの箱の「屋根裏」が使われるのは同じで、そこから箱の中へ凶器を振り下ろすのではなく、その屋根裏で秘密裡に別の部屋へ移動して、「密室殺人」を完遂するというトリック。

ウェルメイドの映画やドラマを作らせたら三谷幸喜は日本屈指の才能だし、旧世紀1999年のドラマなので、アイドル5人の若々しい華やかさも娯しめる。三谷幸喜は当て書きをする脚本家だ。5人それぞれの個性を世間がどう捉えていて、それを彼がどう際立たせて世間へ返そうとしていたかも伝わってくるので、この偶像たちと人生の多くを過ごしてきた女性は目を惹かれるにちがいない。(こういうドラマでは、「ダンスが苦手」という美味しくない役回りになることの多いIだが、実はサドやバタイユの愛読者だったと聞いたことがある。その芸術的開花はいつになるのだろうか)。 

今世紀に入って、彼らのファンでない人々にもアイドルらしい華やかさの健在ぶりを感じさせたのは、このCMだったのではないだろうか。三つの塔の頂上に大きなボートが載せられているような形をした豪華ホテルのコマーシャルだった。

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一瞬、東京の都心に図抜けた新奇さの新名所ができたのかと思って、建築好きの自分は色めき立ったのだが、ホテルができたのは東京ではなくシンガポール。冷静に考えれば同じ2011年の数か月前には、日本は東日本大震災に遭遇して多くのものを失っていたのだった。Remember 3.11.

貧困か多忙のどちらかに取り付かれていたせいで、それまでほとんど海外旅行をしたことのなかった自分が、その数年後、奇遇が重なってその高級ホテルの入り口をくぐっていた。ホテルの広大なロビーは十数階分が吹き抜けになっていて、高層ホテルの根元の部分から、巨大なくし切りのメロンを横から刳り貫いたみたいだった。

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その建築の威容に心を打たれつつ辺りを見回すと、吹き抜けの空隙に吊られた植物風のオブジェが、ほとんど吹いていない風に揺られているのか、微かにその繊細な枝々を震わせていた。あるいは、その枝々は空間を満たしている音楽に震わされていたのかもしれない。音楽…

音楽だった、ぼくの心までをも震わせていたのは。

ヴォーカルもない。ビートもない。おそらくこのホテルのためだけに作られたアンビエント・ミュージックだったのだろう。若い頃に愛聴したブライアン・イーノが創始したジャンル音楽との再会。そんな青年時代の記憶が戻ってきてくれたのが嬉しくて、しばらく立ち尽くしてしまった。

アンビエント・ミュージック1969-2009(STUDIO VOICE BOOKS)

アンビエント・ミュージック1969-2009(STUDIO VOICE BOOKS)

 

 しかし、アンビエント音楽批評の第一人者たる三田格は、アンビエント音楽の内実を普遍性に直結して、ニューエイジ系のヒーリーングミュージックと「同梱」してはならないという。文学でいうとフーコー経由の新歴史主義のような語り口で、三田格アンビエント音楽がポップ・ミュージックとして成立しえた歴史的条件を見失ってはならないと主張するのだ。確かに。それは、ブライアン・イーノの音楽的変遷を少し追っただけでも、想像がつくことだろう。グラムロック… アンビエント… デヴィッド・ボウイやU2のプロデュース…

引き続きフーコーに倣って「系譜学」的な観点に立てば、アンビエント・ミュージックの起源はエリック・サティの「家具としての音楽」になるだろう。室内環境と密接に関わる音、というより、室内環境そのものである音楽をアンビエント・ミュージックは志向した。或る愛聴盤には、家具も何もほとんど置かれていない「room」のジャケット写真を掲げたものもある。

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プルースト昼夜逆転の生活を送りながら、部屋をコルク張りにし、カーテンを閉め切って、外界の光や音を完全に消した環境で『失われた時を求めて』を書いた。

 しかし、芸術制作の現場から、作ろうとする主体の影は消せないし、存在する環境の残響も消すことはできない。

このエクリチュールの現場の実態を最も如実に報告した小説は、ロブ=グリエの『迷路の中で』ではないだろうか。

いまは、私は、ここに、ひとりで、まったく安全なところにいる。外では雨が降っている。外では雨のなかを、頭を前に傾け、片手を目の上にかざしながら、(…)歩いている。(…)外では日が照っている。

このようにして始まる冒頭からして、伝統的な小説観に立てば、もう滅茶苦茶だ。建物の内側にいるらしき「私」の登場直後、歩いているらしき人間の描写には主語がない。雨が降っていたはずの戸外は、数行後には日が照っている。

ウェルメイドな喜劇の対極にある難解で忍耐を要求する小説なので詳述はしないが、このあと「私」のいる部屋が壁紙の模様まで詳細に描写され、その数ページ後には、その壁紙の模様をなぞるかのようにそっくり同じ動きをしながら、少年がこちらへ近づいてくる場面が描かれる。

ロブ=グリエは自分の仕事部屋を小説に登場させたいわけではない。作者の意識の中で時に或るイメージ(雨)が生まれ、すぐにそのイメージを打ち消すイメージ(晴れ)が新たに生まれる。作者のいる環境の一部(壁紙の模様)が小説の中に浸潤したり、そのイメージが自然に膨らんで勝手に登場人物の行動パターンへと発展したりする。『迷路の中で』は、作者が100%統御しえないエクリチュールの現場そのものを、読者に追体験させる小説なのである。

迷路のなかで (講談社文芸文庫)

迷路のなかで (講談社文芸文庫)

 

 芸術家を好きなことを好き放題にする種族と考えている人もいるかもしれない。好きなランチボックスに好きな食べ物を詰め放題に詰めていくような作業を、芸術創作だと思っている人もいるかもしれない。

少なくとも私の知る限り、それは違う。小説を書くことは、夜の森での狩猟や採集に似ている。環境を感知しなければならない。木々のざわめきを聞き、星を読み取り、虫の音に耳を澄ませ、風を感じなければならない。

このエッセイで何を伝えたかったかって?

風に訊け。