小説「新生」

 あなたに、とそばにいるあなたへ呼びかけの声を発しているのに、遠方から遅れて届いた手紙の書き出しのようなそらぞらしさが漂うのは、きっとあなたがそばで深々と眠っているからでしょう。真夜中というには夜明けに近すぎる宵闇に浸ったまま、あなたとわたしは一つのベッドの上、シーツとシーツの間に、完全な裸で横たわっている。あなたは腰と膝を折り曲げている。夜の底に沈んだクエスチョンマークのような姿勢で眠っている。あなたに、と私は再び二人称単数の代名詞を口にする。あなたに、聞いてほしい話があるの。眠ったままでいいから。

 私はそう切り出すと、シーツの間から抜け出して、書き物机の上にある蝋燭に火をともす。眠っているあなたの意識が、ほんの少しでいいから、私の途切れがちな声の方へ向いてくれますように。蝋燭の炎が伸び縮みして、私の乳房の影を、波打つ柔らかな暖色で壁にゆらゆらと投げかける。私の声が聞こえる? という大切なあなたへの問いかけに、私は努めて穏やかで角のない声音を選ぶ。話さねばならない話が幸福な要素だけで満ちていることは、実際はきわめて稀。稀だからこそ、穏和な声で。

 あなたがどこからやってきて、いま私と同じベッドの中にいるのかは、恋の熱に浮かされ通しの私は、本当のところをよく憶えていない。けれど、確信ならある。あなたは「遠い戦場」から、他のどこへでもない私の元へ、私のために帰ってきてくれた。そう強く信じている。ありがとう。いま私が生きていられるのは、あなたの心臓の鼓動を、こんなにもすぐそばで感じることができるからだわ、きっと。…ふふ。「遠い戦場」だなんて、20歳の女の子には似合いそうもない言葉。映画でしか使われない言葉ね。ちょうどいい。皮を剥かずに、パイナップルの果肉を取り出すことはできないもの。話の外側から、映画の話から、始めようかしら。

 この恋に取り憑かれる前、大学で西洋史を勉強している私に取り憑いていたのは、一本の前衛映画。テレビ番組が嫌いな私は、狭い部屋の片隅にあるテレビ受像器に、その映画だけを始終リピート再生させていた。

 脳裡のどこかで、まだあの映画が廻っているような気がする。映画中では、とりとめがないほど多数の逸話が交錯している。中心にいるのは、映画や政治に関わっている若い男女たち。彼らは東欧の戦場の真っ只中で、戯曲『戯れに恋はすまじ』を上演するために、勇ましくフランスを旅立つ。けれど、国境を越えるとたちまち、武装団に惨殺されてしまう。彼らの物語はあっけなく途絶する。

 リアリズムに徹すれば、映画は決して戦場へは辿り着けない。きっとそのことを、映画は伝えようとしているのでしょう。幸運にも戦場へ辿り着けるとしたら、それは生命を賭して報道しようとするジャーナリストたちのカメラと肉眼だけ。私たちの眼は何を見るべきなの?

 彼女が、と私は三人称単数の代名詞をつぶやく。彼女が戦渦の街に何を見ようとしたのか、あるいは何を見せようとしたのかは、私にもまだよくわからない。映画中の若者たちの旅の原型になっているのは、東欧の空爆中の街で2ヶ月間市民と辛苦をともにして、停電中の小劇場で『ゴドーを待ちながら』を上演した女性作家――そう教えてくれたのは、私より10歳年上の彼。

 彼、と三人称単数の代名詞を発した後、私は急いで付け加える。いま別の男性の話をするのは、もちろん、彼があなたにとっても大切な人だからよ。彼と初めて出逢ったのはその前衛映画がきっかけ、親密になったのは蝋燭がきっかけ。そう話せば、あなたにも話が少し見えてくるかしら。

 私は大学に入学して一年半後、休眠状態だったフランス映画サークルを友人と復活させて、復活記念に開いた学園祭の映画会に、当時(いえ、今も)29歳の駆け出しの戦場ジャーナリストだった彼を招聘した。

 まだ一冊しか著書のない若い彼を講師に選んだのは… 選んだのは… ごめんなさい、選んだのは… そう言いかけているうちに、私は喉を迫り上がってくる熱い塊に、とうとう言葉を奪われてしまう。蝋燭の光が滲んで広がったかと思うと、小石を投げ込まれた夕映えの水面(みなも)のように、視界全体が黄金色の水紋をなして波打つ。涙があふれて両頬を伝う。半年前からあれほど激しい号泣を何度となく繰り返して、もうすっかり涙は絞り尽くしたと思っていたのに。…ごめんね。今のあなたには、私がどうして泣いているかなんて、わかりっこないわね。私がここで涙を流しても、眠っているあなたに、ただ悲しみの波動が伝わってしまうだけね。…もう大丈夫よ。選んだのよ、私は彼を、彼は私を。

 待って、急ぎすぎたわ。映画会に話を戻さなきゃ。彼に講師を依頼したのは、戦場だけでなくサッカーや映画の分野まで自在に駈けまわる、彼の取材範囲の広さに惹かれたから。二つ返事で引き受けてくれた彼と私たちは、前衛映画の上映後に残った数十人の観客を前にして、普段着の言葉で賑やかに談話会を繰り広げた。意外にも、それが映画そのものよりも好評だった。理由は、彼が複雑に入り組んでいる民族紛争の話を、国内リーグにいる東欧出身のサッカー選手たちや、映画祭でグランプリを獲った別の東欧映画と絡めて、縦横無尽に語ってくれたせいよ、たぶん。いちばんトークが盛り上がったのは、前述の人気サッカー選手Sのユニフォームの下の白シャツの話。直前の試合で故国への「空爆中止」を訴えてリーグから処分されたSは、次の試合でゴールを決めた直後、ユニフォームを脱いで、下にある真っ白な無文字のシャツを観客に示した。遠い異国での戦争をほとんど報道しないテレビが、Sの胸にある白紙状態(タブラ・ラサ)だけは全国中継した。白紙には歪みも偏見もない。私たちの眼は何を見るべきなの?

 映画会の成功ではしゃぎ気分になっていた私たち女子大生3人組が、そのまま彼を慰労の宴席に招いて、全員で祝杯をあげたそのとき。そのときよ。彼が私たち3人に蝋燭を贈ってくれたのは。贈り物の包みをほどいて、嬌声をあげる私たちに、彼が真剣なまなざしでこう言った。きみたちにも「火」を継いでほしい。何の火を? と私。「真剣さを失わない」という約束の火を、と彼は真っ直ぐに私たちを見て、精悍な表情で答えた。

 真剣さ。確かにそれがいちばんの彼らしさだった。平和で安全な国に育っていながら、遠い異国の戦場で起こっている凄惨な現実を、まるで自分の故郷の街のことのように真剣に語る彼の話に、同じくひたむきな相槌を打っているうちに、私の心の底が擦(こす)れて、別種の火が点るのを感じた。その夜、機械仕掛けのように歯車がかちりと噛み合って、私の新しい人生が廻りはじめた気がしたのを、今でも憶えている。

 バスキャンドルという蝋燭は、どこの国にもあるものなのかしら。お湯を張ったバスタブの中に浮かべる球形の蝋燭で、火がともるとアロマの香りが漂い出す。彼が贈ってくれたのは、甘くて眠気を誘うラベンダーのバスキャンドル。ラベンダーといま口に出しただけで、あの独特の優しい香りがありありと蘇ってきて、あの特別な夜の出来事が私の脳裡で廻りはじめる。私たちは深呼吸を繰り返している。厭なことを忘れたがっているように、漂うラベンダーの香気を吸って、肺を落ち着きと安心で満たそうとしている。この香りを嗅ぐと平和な故国へ帰ってきた気がするんだ、と彼が揺らめく蝋燭の灯りの中で告白する。そう、私たちは私のマンションの浴槽に、ふたり裸で浸かっている。浴槽が狭いので、長身の彼が奥に座り、私は彼に背中を向けて、彼の膝の間に座っている。子供の頃、父がよくそうして一緒に湯船に浸かってくれたように。もう私は19歳。少女ではない。けれど、背後から私の前へ伸びている彼の手は、私の裸の乳房に触れようとしない。彼の手がつかんでいるのは本。彼の敬愛する彼女が書いたルポ。蝋燭の灯りだけを頼りに、彼が浴室で朗読を始める。男性的な低音の声帯の震えが浴室に響き渡って、私を魅了する。

「*****にいるあいだ、非現実感にとらわれたことがあるかと質問される。*****に行くようになってから(…)私にはそこは世界でもっとも現実的な場所に思える、というのが真実だ。(…)『ゴドーを待ちながら』は十二本の蝋燭を舞台に置いて、八月十七日に開幕した。(…)公演の最終場面だったか(…)ゴドーさんが、今日は来られないけど、あしたは必ず行くからって、との伝令の言葉に続くヴラジミールとエストラゴンの長い悲劇的な沈黙のさなか、私の両眼が涙でちくちくし始めた。ヴェリボルも泣いていた。観客席は静まりかえっていた。聞こえるのは、劇場の外の音のみだった――街路を驀進する**軍の車両、そして狙撃の爆音。」

 その言葉で、ルポはふっつりと終わっている。彼女が涙を流したのと同じ蝋燭の灯りの中で、私たちは黙り込む。沈黙の後で、なぜ彼女が戦時中の街に滞在して戯曲を上演したのかについて、しばらく話し合う。なぜベケットなのか、についても。

 その答えの一つであるかのように、彼が日灼けした右腕に浮いている一筋の傷痕を私に見せる。内戦下で私兵たちに襲われ、腕をねじり上げられたまま、背中を銃で打ちのめされたときにできた裂傷だという。ジャーナリストの身分が、戦場での生存を保証してくれるとは限らない。IDカードを彼らに見せても、金もカメラもパスポートも奪われて、身ぐるみ剥がれただけだったそうだ。ほの白く光る蛭のような彼の傷痕に、私は優しく接吻する。私は背中の下の方、背骨の付け根辺りに、彼の固い愛のしるしを感じる。……

 私は彼に処女を捧げた。けれど、初体験そのものより今でもくっきりと憶えているのは、事の後で先に眠りに落ちた彼の寝顔を、こっそり写真に撮ったこと。それはきっと、彼が唯一撮ったことのない種類の写真だと思う。写真の中の彼の寝顔を、私は何度飽かずに眺めたことでしょう! その眠っている横顔からは、ふだん戦争や政治について饒舌に語る情熱的な面影が消えている。何かを一心に信じている少年のような純粋な真面目さが、寝顔に湛えられている。そこが愛おしくてたまらない。彼もあなたも、私が選び、あるいは選ばれた相手。きっとあなたは彼に似ているにちがいないわ。いつかあなたにも、その写真を見せてあげるつもりよ。

 写真と言えば、私と出逢う前、27歳のときに彼が上梓した処女写真集は、上々の評判をとったらしい。世界各地に遍在している戦場や紛争地の写真とルポがぎっしり填まっていて、20歳の私の華奢な手が支え持つには、いささか重すぎる一冊。けれど、戦場で真っ先に殺される「真実」を私たちに伝えてくれる貴重な一冊よ。

 …待って、いま身じろぎしたわね。あなたが怖がっているような気配を感じる。大丈夫。いま聞こえるのは、あれは犬の鳴き声よ。悪い夢を見ないでちょうだい。このマンションから一区画離れたところにある屋敷で、病んでいる犬が時々夜更けに遠吠えするの。怖くない。私がそばにいるから。

 あの元少年兵も、外界から音しか訪れない監禁部屋で、今でも眠れない夜に、同じような犬の遠吠えを聞いているかもしれないわね。彼の写真集の中で、私がいちばん強い印象を心に刻まれたのが、その元少年兵が足を鎖で繋がれたまま、精神病院の一室の床に全裸で横たえられている写真。添えられているキャプションには、元少年兵が食べ物のことで言い争って両親を殺してしまったこと、うだるような暑さの中で、糞尿垂れ流しのまま鎖に繋がれていること、怯えるように一点を見つめているきりであることが書かれている。この写真には、少年兵たちの紛う方なき真実が映し出されている。

 私と恋仲になって、甘い蜜月を数ヶ月過ごした後、彼は再びアフリカへ旅立つことに決めた。アフリカ諸国の反政府組織には、幼い頃誘拐され、薬物で洗脳され、命じられるままに残虐行為を平気で繰り返す少年少女兵たちが、たくさんいるのだそうだ。まだ写真が足りない、報せ足りないんだよ、と彼は憂鬱な声で絞り出すように私に言った。世界が受け取り損ねたあの子供たちを、もう一度受け取り直してやらなきゃいけないのに。

 出発前の彼に、今度は私に約束をして、と私は必死の思いで頼み込んだ。私にとっては絶対的な、たったふたことの約束。必ず生きてここへ帰ってきて、帰ってきて私ともう一つの約束をして。そう私は頼んだの。それが何を意味するのか、勘の良い彼にはすぐに伝わったみたい。約束するよ、と彼は私の耳元で囁くと、不安で震えている私の身体に逞しい腕を巻きつけて、きつく抱きしめた。彼は愛情を伝えようとするとき、私の息が苦しくなるほど、きつくハグする癖があった。

 アフリカへ旅立った後、彼は何度か絵葉書を私に送ってくれた。観光客向けの風光明媚なアフリカの名所が写された絵葉書。中には、数百羽の桃色のフラミンゴが水色の湖の上を、いっせいに旋回している美しい写真もあった。キャプションのように彼が添えた一筆には、こう書かれていた。これは、ぼくたちが注目すべき現実ではない。ぼくたちの眼は何を見るべきなのだろう?

 永い間ベッドに横たわっているので、身体が鉛のように重くなってしまったような気がする。ベッドから飛び起きようとしているのに、私の裸は置物の粘土細工になってしまったかのように、あらゆるところが思うように動かない。起きようとしているのは、あなた以外の人の気配を感じたから。誰かがいる。

 やっと顔を起こせた。部屋の戸口のところに誰かが立っている。戸口のそばの窓際にある机上の蝋燭の火が、その誰かの影を、ゆらゆらと大きく見せたり小さく見せたりする。彼だわ! 約束通り、帰ってきてくれたのね! (私のすぐそばには今あなたがいるけれど、それは問題にならない)。私は喜び勇んで彼の元へ駈け寄ろうとするが、いや! どうして! 身体が動かない。蝋燭が急に激しく燃え上がり、ほとんど眼を開けていられないほど光が眩くなる中で、彼がいつもの真っ直ぐなまなざしで、私に向かって何かを訴えかけているのが見える。けれど、彼の声は聞こえない。何? もう一度言って! 眩しい光に包まれながら、彼が唇を動かす。…ないの? ぼくが… …のが… わからないの? 彼は同じ台詞を繰り返している。私にそのひとことだけを伝えようとしている。私は必死になって彼の唇を読む。…ぼくが、燃えているのが、わからないの? いや! 彼を包んでいる光、それはまさしく炎そのもので、辺りには息苦しく煙が充満している。逝かないで! 私は絶叫して半狂乱になって、せめてもう一度だけ彼を抱きしめようとして、彼の存在を直に肌で感じたくて、よろめきながら何とか立ち上がる。床にふらつく足をようやくついたところで、私は立ったまま目を醒ます。目前では、夢の中で燃えていた炎が、やはり勢いよく燃え上がっている。窓が少し開いていたらしい。机の奥に掛かっている化繊のカーテンが風でまくれあがり、蝋燭の火が着火してしまったのでしょう。私は悲しみで胸がいっぱいのまま、カーテンの火のついていない部分をつかんで引きちぎる。そのまま急いでひきずって、燃えているカーテンをバスタブに投げ込む。水を張る。炎が消えて真っ暗になった浴室で、初めて彼と愛し合ったこと、彼が永遠に失われてしまったことを思って、しばらく啜り泣く。泣きながら、目前に湛えられている暗い水を見つめる。

 あの前衛映画の中で、私がいちばん好きな情景(シーン)を思い出す。あそこにも水がみなぎっていた。冬の海辺。傾斜のきつい砂浜に、人形のように全裸で運ばれてきた女優が、深紅のドレスを着せられて、ただひとことOuiと言う場面。そのOuiを世界にふさわしく呟くことがあまりにも難しくて、監督は延々と撮り直しを要求する。Oui. 撮り直し。Oui. 撮り直し。撮り直しが100テイクを越えた頃から、他の俳優や撮影スタッフがその映画を見限って、次々にいなくなり始める。Oui. 撮り直し。Oui. 撮り直し。ほとんど人のいなくなった寂れた浜辺での608回目のOui. で、ようやくOKが出る。映画中に美しい音楽が満ちる。

 アフリカのある国の首都郊外で、彼は他のジャーナリスト二人とともに、金目当ての少年兵たちによって夜間襲撃され、すべてを略奪された後、民家に閉じ込められたまま、火を放たれて焼死した。半年前、私は彼の両親から彼の死の詳細を、そう聞かされた。幼い頃に誘拐された少年兵たちの中には、洗脳がたやすくなるように、誘拐時に自らの手で両親を殺すことを強制された子供もいる、と旅立つ前に彼は語っていた。そんな少年兵たちにとって、恵まれた平和な先進国からの使者は、たとえ彼らを救う一助となるべく報道しようとするジャーナリストでさえ、単なる略奪対象以上のものではなかったのでしょう。

 私はこんなにもどうしようもなく残酷な世界に向かって、いつかOuiと言えるようになるだろうか? この世界を肯定できるようになるだろうか? そうすることは、私にとって譬えようもなく困難なことよ。でも、いつか、そうできるようになるとしたら、それはきっと、ひとえにあなたのおかげだと思うわ。

 アイルランドでは、若い娘たちが前後に三度ずつ火を跳び越えると結婚して子宝に恵まれる、と信じられている。あなたは火を跳び越えて、「遠い戦場」から、他のどこへでもない私の元へ、私のために帰ってきてくれた。私はそう強く信じている。ありがとう。これからの私たちには、たくさんの困難が待ち構えていることでしょう。けれど、たとえ何があっても、私は絶対的な愛情であなたを肯定しつづける。真剣にそう約束するわ。

 あなたに話すだけ話したら、私も心の整理がついたような気がする。夜が明けたら仕事を探しに行こうと思うの。大学は休学するつもり。あまり良くない体調の今の私に、できる仕事は少ないかもしれない。でも、新聞の広告折り込みでも、何でもやるわ。労働に真面目に打ち込みたい。そして、余った気力、余った時間、余ったお金で、このどうしようもない世界を、スプーンひとさじ分でもいいから、少しでもましなものにしたいの。私は20歳よ。真剣さを失わなければ、できることはまだたくさんあるはず。

 あなたはいま水の中にいる。私の羊水に包まれて、クエスチョンマークみたいな姿勢で眠っている。あなたは未知の可能性そのもの。あなたが待ち遠しい。早く生まれて、私の20歳の乳房に口づけなさい。生命を分かち与えてあげるから。彼が私にそうしてくれたように、きつくハグしてあげるから。

 あれは何というのかわかる? ほら、窓が曙光に染められて、薄オレンジ色に明るくなり始めている。あれは光というのよ。窓が明るいのは、カーテンがないせい。カーテンに火がついたとき、彼は夢に現れて、私とあなたを懸命に火事から救おうとしてくれた。世界のすべてを、その眼で見届けなさい。あなたは彼と私の子、そして彼と同じ男の子なのだから。あなたの名前はもう決めてある。ほら、いま聞こえた? あれは何の鳴き声かわかる? あれは鳥というのよ。死や悲惨が嘘であるかのように、街々が光を孕んでしらじらと明るんでくる。早起きの鳥たちが陽気な歌を囀りはじめる。生まれておいで。ほら、世界がこんなにも美しく生きているから。
 
 
(20枚)

広告を非表示にする