「時幻」つきの恋

20代の女の子と映画を見に行くのに、『裸のランチ』を選んだのは失敗だった。

裸のランチ [Blu-ray]

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バロウズの同名小説に加えて、彼の自伝的要素もうまくまとめてあって、クローネンバーグ監督の仕事は決して悪くない。ただ、麻薬中毒の作家が操るタイプライター「クラーク・ノヴァ」がゴキブリじみた昆虫なのは良いとしても、観に行った東銀座の映画館が無残に老朽化していて、座席の通路に映画の光が落ちると、そこを「クラーク・ノヴァ」と同種の昆虫が這って横切っていたのは頂けなかった。(暗闇の中で彼女は私の手をきつく握った)。いささか演出が行き届きすぎてはいなかったか。映画館はその後すぐに潰れた。

そしてかの有名な「ウィリアム・テルごっこ」。射撃の名手だったバロウズが、妻の頭上に置いたグラスを標的にして戯れに銃を撃つと、弾は妻に命中して彼女を絶命させてしまう。現実に起きた事件で、映画の終幕も飾った。

風の谷のナウシカ』で昆虫への偏愛を披露した宮崎駿なら、同じく世界的な射撃手の次元大助に、そんな役回りは用意しない。女性絡みで言えば、逃亡する姫から受け取った輝かしいティアラを帽子の上に重ねてかぶって、正確無比の射撃に立ち戻らせるくらいだろう。

宮崎駿の『風立ちぬ』の連想から、冒頭の女の子と軽井沢の油屋旅館に泊まりに行ったのを思い出した。そこは堀辰雄が数々の作品を執筆した旅館。他にほとんど宿泊客はおらず、不意に東京から現れた若い男女に、旅館の主人も戸惑っている様子だった。理由を話すと、堀辰雄が執筆した居室を見せてくれた。

ラディゲ、コクトープルースト…。フランスの作家たちから強い影響を受けた堀辰雄だったが、その小説を最も深く規定していたのは、彼の宿痾の肺結核だろう。当時、肺結核は死病だった。実際に『風立ちぬ』のモデルともなった女性は、同じ病気で若くして亡くなっている。

「時限つきの恋」。堀辰雄の恋愛短編の細部の美しさをかき立てているのは、フランスから輸入した詩情というより、生命の儚さを知る者のまなざしだったのだと思う。

その旅館を一緒に訪れた女の子とは、確かその旅行を最後に別れることになっていたはずで、数十年経って振り返りつつ、ああ、あれも「時限つきの恋」だったのかといま呟いたところだ。

こんなにも時間が経ってしまった。記憶は朧で、視界も滲んでしまう。

バルトは『恋愛のディスクール・断章』で

ひとりの恋人の中にもいくつかの主体があり、それぞれが、似てはいても異なった「泣き方」をするのであろう。今、「眼に涙を」うかべているこの「わたし」とは、何者であるのか。ある日、「もう少しで涙をこぼすところ」だったあのもうひとりの「わたし」とは、何者であるのか。

恋愛のディスクール・断章

恋愛のディスクール・断章

 と書いて、泣き方の数だけ異なる主体が存在すると述べている。

無論のこと、自分は拳銃に触れたことはないし、愛する人へ向けて銃弾を放ったこともない。しかし、もし視界が滲むような感情制御上の涙液の放出が起きるとするなら、そこで泣いているのは私ではなく、未熟で無思慮な両の手のひらの中で、絞め殺されてしまった小鳥のように絶命した恋こそが、「泣いている」のではないかと感じられる。その小鳥にも明日の囀りや歌があったはずなのだ。

いや、視界が朧に霞んでいるのは、記憶が砂まじりに風化して、白みがかっているせいかもしれない。その片隅に、あの旅館の隣に骨董品屋があって、その名を「時幻」といったような記憶が微かにある。調べてみると、「時幻」は00年代までは存在したが、すでに潰れてしまったらしい。

http://www.bb.e-mansion.com/~moto-s/karuizawa8.htm

時の幻の中に多くのものが消えていき、視野はますます霞んで白くなっていき、遂にはタブラ・ラサの純白となっていく。

その未生の白紙の上に、明日も言葉を書いていこうと思う。

 

 

(4/30分)

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