夜明け前の路上は雨

文章を書くのに「ダンモのズージャの伴奏」が欲しくて、Five Corners Quintetを聴いていた。より正確に云えば、FCQはモダン・ジャスの精髄を随所に生かしたクラブ・ジャズの範疇に入るアーティストだ。

その伴奏を背後に聞きながら書くとしたら、やはり「月」と「葡萄パン」になるだろう。その二つの短編に言及した博士論文にネット上で遭遇して、どうしても小文を書いた方が良いような気がして、これを書いている。

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/30560/20141016175106566285/kbs_47_75.pdf

論文の要所は、二つの短編のうちの「月」にある。ピータアとキー子とハイミナーラの三人が深夜の教会に侵入して秘密パーティーを繰り広げる話。この短編のクライマックスに勝手に認定したキス・シーンは、この記事で引用した。

「そこで接吻(スーキ)してごらん」
 とハイミナーラが言った。
 キー子は目をつぶり、唇をうすくあけ、わざとらしく胸を大きく波打たせていた。ピータアは彼女が床の上にさしのべている手に触れてそれをそっと握った。(…)
「スーキもできないのか。純真なもんだな。十九の娘と十八の小僧が、ダンモのズージャの伴奏でよ、何て可愛らしいんだろう、とりあった手が慄えてさ」

しかし、博士論文の筆者(以下「博士」)はクライマックスをこの直後の最終場面に求めている。キー子相手に「スーキ」できなかったピータアが、地下室から教会の尖塔まで駈け昇って「お月様が見えるんだ」と言い張って、残る二人から「嘘つき」と言われてしまう場面。博士はその場面と、『豊饒の海』2巻『奔馬』の最終場面(深夜に切腹すると瞼の裏に赫奕たる日輪が昇る)を重ねて、「現実には無いものを絶対的存在として顕在させようとする三島の意識の萌芽」を読みとろうとする。

この論文で「いいね」を一番押したくなるのは、「葡萄パン」の読解の方にある。ドラッグでトリップ中の若い男女の性交を、友人である主人公が女の身体を支えて手伝ってやっている間、カレンダーを読み上げる場面。博士は博士らしく、そこに「敗戦記念日」が含まれていることを指摘し、主人公が「破裂した水道管のように、いたるところから、無意味がすさまじい勢いで吹き上げ」るのを感じる要因になっているだろうことを指摘している。

次に「いいね」を押したいのが、ビート族として群れ集ったときのエネルギーの放恣な発散と、孤独で冴えない現実生活者の顔とのヴィヴィッドな二面性のコントラストをきちんと拾い上げているところ。博士は「月」からこんな場面を引用している。

 キー子は毎週末をツウィストで躍り明かす。週日には、瘧が落ちたように、毎晩ぼんやりしている。

 自分が二面性について引用するとしたら、この描写が良さそうだ。

 「見ろ! 見ろ!」 とハイミナーラが、はるか礼拝堂の内部を指さして叫んだ。

 その暗い広大な空間に、自い翼がひらめいてすぎるのが見えたのである。

 真夜中の教会のがらんとした礼拝堂を、天使たちが飛び交わしているらしい。翼は次々と あらわれ、天井にひらめいたり、こわれた窓硝子のへりのギザギザに滞って消えたりした。(…) 

 そして三人とも、前以て、ちゃんと知っていた。あれは深夜の電車通りを走る無数の車の前燈が、むこう側のこわれない窓硝子から屈折して射し入って、つかのまにそこかしこへ撤き散らす光りにすぎないと。

 真夜中に輝くつかのまの「虚構」と、虚構がぶざまに崩壊してしまったあとの「現実」という二元論。前者が、三島自身が「月」で描いたと語った「疎外と人工的昂揚とリリカルな孤独」のうち、「人工的昂揚」に該当し、後者が「リリカルな孤独」に該当する。

起承転結にせよ、序破急にせよ、作品が短くなればなるほど、物語の継起的機序を織り込むことは難しくなる。五七五の俳句ともなると、事物を2つか3つ配置するだけで精いっぱいになってしまう。(例えば「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」)。

この短編の最後で、教会の尖塔へ駈け昇ったピータアの「お月様が見えるんだ」というありえない報告以前から、それを聞くキー子とハイミナーラは「梅雨雲はなお垂れこめて」いる現実の天気を知っている。そこにあるのは、博士が言うような『奔馬』最終場面の切腹にも似たピータア個人の劇的な感情の噴出ではなく、前出の二元論がまたしても手際よく書き込まれていると読みとる方が、有力なのではないだろうか。

やはり三人は同じ夜の中にいるのだろう。その証拠に、キー子もハイミナーラも「真夜中に輝くつかのまの虚構」=「あるはずのない月」に対して、口を揃えてこういうのだ。

「嘘を言ってやがる」「いやな子ね。嘘つきもいいとこだわ」

ここで言われる「嘘」が「虚構」の別名であることは、論を俟たないだろう。

さて、三島は「月」に「疎外と人工的昂揚とリリカルな孤独」が描かれていると自作解題した。この前二者の深い関わり合いに、三島文学の精髄のひとつがある。

初期作品『盗賊』の最終部分は、或る女性に失恋した男性、或る男性に失恋した女性が人工的な紐帯をもとに、愛し合ってもいないのに結婚式を挙げ、その当夜に心中するというきわめて人工的な筋立てだった。

一昨晩言及した『黒蜥蜴』でも、1:14:31から、替え玉の「偽令嬢」と、女賊に愛されたいためだけに自らが剥製化されるよう「偽の言動をとった男」とが、二人の愛がいささかも本物ではないのに、死後に本物の愛の剥製になる可能性に恋心が燃えて、愛し合うようになる。凡庸な書き手が思いつきもしないような人工的なプロットだ。

ここから先はあまり詳しく語りたくない。この疎外と人工性の組み合わせの背景には、当時まだいくぶんかは反社会的属性とされていたホモ・セクシュアリティの問題系があることは間違いない。世間から、生来的に「偽の愛」を生きる種族だと後ろ指をさされ、しかしそう弾圧されるからこそ、「真の愛」へと到達できるのだという逆説。

この論点については、三島の屈折した性的自叙伝である『仮面の告白』に付されるはずだった「私は無益で精巧な一個の逆説だ」という序文を参照してもいいし、文壇登場時の三島に「マイナス120点」の採点をつけた中村光夫との対談での鮮やかな切り返しを引用してもいい。

三島はそこで、中村光夫の「現実はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、筆者の創作になって行くという性格を帯びてくる」というテーゼをひっくり返して、この裏返されたテーゼこそが、作家の勝利なのだとする。

虚無はこれを言葉で精細に表そうとすればするほど、現実になって行くという性格を帯びてくる。

 「疎外された偽ー人工の劇場で繰り広げられるニヒリズムと愛と死に満ちた劇の数々」。

このような要約を許しやすい三島文学の精髄の上演演目が、この「月」や「葡萄パン」でも、ここで語った三角形を描いていることだけ、最後に付け加えておきたい。「月」のキー子のモデルは、博士がしっかり調べをつけてあるように、堂本正樹だったらしいし、「月」に現れた愛する二人を見る一人という三角形は、友人の性交を手伝う「葡萄パン」でも、驚くほど同じ角度の描線によって同じ図形がなぞられているのである。

 別段批判すべきことではないにしても、三島文学をその自死から遡って作品に自死の萌芽を読もうとする批評は、すべて説話論的磁場に足を取られていると言っても過言ではない。しかし、その「説話論的磁場」という概念の発案者自身が、世間で考えられているより遥かに柔軟な批評的構えを取っていることを、どうして人は理解しないのだろうか。「どうして?」というシンプルな疑問符は、ここ何十年も中空に浮かんでいる。

 つまり、そうとは書かれていないのに、この文章を「作者は死んだ」と解読してしまうものたちがいて何の不思議もない説話論的な磁場の存在をあらかじめ否定していたのでは、『作者の死』という題名の文章を綴ることは不可能なのである。それはちょうど、戦争が勃発したとたんにその間近な終りを予言せずにはいられない人たちと、『失われた時を求めて』の作者が深い愛着と呼ぶもの以上の感性を介して馴れ親しみ、彼らの言動を高みから観察して批判していたわけではなく、その不自然きわまる自然さにほとんど共感していたことを想起すればたちどころに理解される事態であろう。プルーストは、「戦争は終るだろう」という大合唱を描写することで、それがこのとりわけ長い小説の終りに近づいたことの予言であるととられても不思議ではなかろうとさえ覚悟している。「終るだろう」、あるいは「もう終ってしまった」という断言ばかりがあたりに行きかっているとき、彼は終ることにふさわしい相対的な長さの概念を超えた「時」をごく身近に生なましい特続として生きていたわけだが、その環境の直接性を存在から遠ざけてしまう不自然さをも彼は肯定しているのだ。
 『作者の死』のバルトに恵まれているのも、そうした肯定的な感性である。

物語批判序説 (中公文庫)

物語批判序説 (中公文庫)

 

日本語最高峰の難度とも評される蓮実重彦の批評は、若い頃に夢中になって読んだ愛読書でもあった。今晩夜明け前に読み返してみて、こんなにわかりやすかっただろうかと感じられるほどに、どこか自分が成長したという錯覚を与えてくれたことにさえ、またしても読恩を憶えずにはいられない。

読み返して感動的だったのは、蓮実重彦によるバルト擁護の繊細さだった。「肯定的感性」「浅さ」「犠牲」等々の概念で、誤解の泥にまみれやすかったバルト像を綺麗に拭き上げて、思いもよらない表面の模様を浮かび上がらせる手腕は、やはり「見事」という紋切り型の一語に尽きるだろう。しかし、同時に、その論旨はバルトについてではなくバルトを使って語られており、サルトルの「終わりを語りたがる紋切り型の欲望」からフーコープルースト、バルトとつなぎつつ、バルトの果たした「犠牲」という概念を梃子に、構造主義的言説群が共通して持つ「始原を語りたがる紋切り型の欲望」へ論じ至るさまは、世界的知性だけが描きうる知的高峰へと到達しているように感じられる。

と、ここで冒頭のFCQに立ち戻ろうとすると、文脈の接合が明らかにおかしいように感じられることだろう。

もちろん、FCQの首謀者のニコラ・コンテが、しばしば話題になるモダン・ジャズとクラブ・ジャズの対立のはざまにありながら、(その対立がまた小説家と批評家との対立にも似ていて興趣をそそりやまないが)、クラブ・ジャズの側からギターを持って溝を跨いで生演奏に加わるだけの革新性を備えていたおかげで、モダン・ジャズから文化的記憶の断片を豊かに引き出したヨーロピアン・ニュー・ジャズという新ジャンルを創始できたことをまずは称えて、必ずしも蓮実重彦のような世界的知性ではなくともできるはずなのに、小説と批評とを同時に書くという文学者の営為がなぜ乏しいのか、と、「どうして?」というシンプルな疑問符を書きつけてもいい。

しかし、語るべきでない文脈は語るべきではない。文脈をあえてつながないまま、「ダンモのズージャ」のスイッチを消すと、雨。

真夜中の戸外では、この地方都市には珍しく、激しい雨が降っている。屋根や路上に落ちた雨は、雨樋や排水溝に集められて、いくらかの土砂とともに川へと注ぎ込み、下流へと流れていく。

 それはこの国のどこであっても同じ風景であるはずだが、東京の有名河川の近くに住む知人が原因不明の病気になって愚痴をこぼしている席に連なったとき、異常事態が陰で進行しているのを感じた。「白内障になったんだ。眼科へ行ったら、ボクシングをしましたか?って訊かれたんだけど、40代後半でするわけないよね」。原因がよくわからないのが不安だと彼は訴えていた。この人も何も知らされていないのだ。

白血病白内障や心臓病は、放射能被爆によって罹患する代表的な病気だ。

被爆を避けるには、空気、食事、水に気を付けなければならない。特に水が盲点になりやすい。福島と同程度以上の汚染が確認されている(!)東京では、飲料水だけでなく、シャワーや入浴の水道水にも手当が必要だ。

夜明けまでに帰宅しようと思って、建物の出入り口まで降りてきた。路上ではまだ激しい雨が降りつづいている。雨が弱まるのを待って、しゃがみこんで腰を下ろしていると、路上を叩きつづける雨が水煙を立てているのが、行き交う車のヘッドライトに浮かび上がっては消えるのが見える。

卒然と、西欧の小洒落たクラブ・ジャズに耳を奪われている場合ではないなと感じた。しかし、伏流する文脈に触れたせいで、あまりにもうら悲しく、どちらへ歩き出せばよいのか、方向感覚がうまく働かないような気がする。中学生の頃に読んだ坂口安吾の小説の一節ばかりが、脳裡をめぐりつづける。

私は汽車を見るのが嫌いであった。特別ゴトンゴトンという貨物列車が嫌いであった。線路を見るのは切なかった。目当のない、そして涯はてのない、無限につづく私の行路を見るような気がするから。
 私は息をひそめ、耳を澄ましていた。(…)いずこへ? いずこへ? 私はすべてが分らなかった。

それでもかまわない。雨がやむまで、どの道を歩いていくかを思い定めるのに、もう少し時間はあるはず。もう少しだけ夜が明け白むのを待ったってかまわないだろう。曙光が、同じ方向へ歩いていく人々の姿を見分けられるほど、路上を薄明るくするまで。

星々を見上げて歩いていこう

「泣ぐ子はいねが」

なまはげという名の鬼たちが、そう叫び回りながら子供たちを威嚇する年中行事が、秋田にある。同じように、子供たちが親の言うことをきく教育的効果を狙って、最近はタップひとつで鬼が電話をかけてきてくれたもするらしい。

しかし、世の中にあるのは、そんなには簡単にいかない仕事ばかりだ。きわめて困難かつ貴重な仕事をひきうけてくれているのが「べぐれてねが」というサイト。この国で流通している食品の放射能検査を買って出てくれている。主催者は仕事の傍らボランティアやカンパで検査に励む一方、東大の教授と共著で論文を執筆したりもしているらしい。

 最近の注目の記事こちらで、通常運転している原発から、福島第一原発由来でない放射線の漏出がどの程度あるのかを教えてくれる。

少し前に発表されていた地元の「真面目なジュース」のことが心配で、どきどきしながら伊方原発周辺の調査を読んだ。福島に比べれば、想定していたよりずっとクリーンだったそうだ。そうならそうで、福島に住んでいたり、帰還させられたりしている人々のことが、どうしても気にかかってしまう。

実は、この地のオレンジには、地元の人すら知らないだろう都市伝説的なトリビアがあって、週刊誌記者によって全国発表されていた。何十年も芸能人の愛情沙汰を追いかけつづけた記者ならではの、週刊誌向けの都市伝説。

そこで取り沙汰されている複数の曲の作詞者は異なるし、バックバンド時代に「師」の井上陽水に作詞してもらったものの、イメージが合わず、必死に頼み込んで2度リテイクを依頼したヒット曲誕生の経緯に、愛する女性の実家のワイン家業が入り込む余地があったようには思えない。

ただそれにつられて、作詞を基準に玉置浩二の楽曲を思い返してみると、松井五郎のほとんど予言者めいた詩才と感覚の犀利さに、聴く者が震えてしまうような隠れた名曲があることに気付くことになる。

太陽の塔が落ちてくる

誰かが逃がした鳩がゆく

どこかへ流れる 叫びと靴音

なんのために?

声が聴こえる…

名前を持たない子供たち

空飛ぶ方舟(ふね)から

のぞいた星には人がいない

 

あなたのそばに

行きたいけれど…

 

People Walking

遠くへ消えてゆく

People Walking

地図さえ開かずに

People Walking

私が残された

 

どうすればいい

 

めざめた空まで錆びついて

あなたは涙を 知りたいのか

  

 (安全地帯「遠くへ」1986年) 

(ファンによるカバーしか見つかりませんでした。ただし酷似しています)

曲の冒頭、「太陽の塔が落ちてくる」に、老朽化のせいで内部見学が延期になった岡本太郎の「太陽の塔」が登場している。あれが三島由紀夫的なものを切り落とした後の、日本の高度経済成長の象徴であることは、この記事に書いた。確かに、日本の高度経済成長はあれから崩落してしまったのだ。

つづく「誰かが逃がした鳩がゆく」は、原発事故による避難時に、連れてはいけない家畜やペットを、人々がせめて逃がしてやった行為を指しているのだろう。

つづく「空飛ぶ方舟(ふね)」はドローンを表していて、「そこからのぞいた星には人がいない」という一節は、チェコスロバキアの写真家が撮ったこの写真を予告していたのだろう。

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インタビューによると、「あなたのそばに 行きたいけれど…」という部分の「あなた」とは「神」を暗示したのだという。私たちは「神のそばへ」どうやったら近づけるのだろう?

そんな問いを真剣に考えたいと思っているのに、主流メディアでは「もり」だの「かけ」だの「蕎麦」の話ばかりが盛り上がっていて、気が散ってしまう。

もちろん、蕎麦の話も徹底的に追及すべきだ。「もり蕎麦」関連で、彼のかつての熱狂的な支持者が、現首相を「真の保守ではない」「国民が騙されている」と断言したのは素晴らしい名言だったし、最近可決されてしまった種子法改正法案に関して、彼のシンパだった右翼系ネット放送局で、やはり「現首相は真の保守ではない」との発言が飛び出したのは、喜ばしい事態だった。

しかし、今頃になって「真の保守ではない」という発言が各所から噴出しているということは、彼の究極の売国行為のことを、人々はまだ知らないのではないだろうか。

「歴史に名を残したがっている」云々(でんでん)と取り沙汰される現首相には、日本史どころか世界史クラスの「気の狂った蛮行」があって、短く言うと、それは「外国への自国設置済み「核爆弾のボタン」贈与事件」という表現になるだろう。

当然のことながら、原発を破壊すれば原爆級の被害が出る。世界の歴史上、自国にある「核爆弾のボタン」を外国へ贈与した指導者は存在しない。まさしく未曽有(みぞうゆう)の売国指導者だぜ。こいつは師にあたる「絞殺コンプラドール」以上の所業だ。

現首相が第一次政権時代に、日本の原発の警備をイスラエルの会社に任せてしまったことをwikileaksが明らかにし、日本の主流メディアでも一瞬だけ報道された。ただし一瞬だけで、後追い報道は皆無。この驚愕の異常事態は、どれくらいの国民に知らされているのだろう。

シン・ゴジラ』も『君の名は』も、10年代を代表するとても優れた邦画だと思う。涙腺の脆い自分は『君の名は』を見ると必ず泣いてしまう。しかし映画作品として孕んでいるその政治性が、3.11東日本大震災後の行政の対応のまずさや不十分さを諷刺するだけで、本当に充分なのかという思いが、自分の中では尽きない。「マグナBSP」は無理だとしても、せめて「真の保守ではない」を、何とかして流行語にできないものか。

戦後何度も繰り返された敗戦で、私たちはどれほど多くの生命を失ったことだろう。当時世界でもっとも有名な日本人だった坂本九も、日航123便墜落(撃墜)で落命した。姉妹揃って報道の最前線にいたとしても、何ひとつ生き残るために必要なことを知らされずに、若い生命を落とさねばならない。後に子供たちを遺したまま。本来「泣ぐ子」を叱るべき立場の大人だって、泣いてしまいそうになる。

人が亡くなったことを子供に説明しなければならないとき、「星になった」という表現を人々は好んで使う。

あのようにして星にならざるをえなかったこの国の人々を、忘れずにいよう。彼らの死が「真の消失ではない」と信じられるような社会を創るために、せめて自分に回ってきたわずかな役割だけでも、しっかり果たしていこう。

そんな決意を抱きながら夜道を歩いていくとき、この曲、この歌唱者の歌が、きっと自分の脳裡に響きつづけることだろう。

上を向いて歩こう

涙がこぼれないように

(…)

上を向いて歩こう

にじんだ星をかぞえて

(アルバムコンセプトの紹介)

(歌唱はこちらで聴ける)

ラジオから不意にジョン・レノン

昨晩は疲労のあまり0時から2時まで仮眠。2時半くらいに再出社して7時過ぎまで調べたり書いたりして、そこから朝食。8時に就寝して12:30に起床した。(少なくとも怠惰ではないと自分は思うが、そういう感覚は人それぞれなのだろう)。さすがにこういう負荷が数か月以上続くと、生活も仕事も家庭ももう滅茶苦茶だが、その混乱ならではのちょっと嬉しいこともあった。ラジオの声が聞こえたのだ。

眠っている間に、ここで書いたMから電話がかかってきた。番号表示もなく、彼女が名乗ってもいなかったのに、電話口の相手がMだとわかった。電話なのに、夕闇の袋小路の奥のような場所で、こちらを振り返っている顔が白く浮かび上がってきて、「用件承知」とMは言った。「用件承知」…。どういう意味だろう?

Mは細やかな気遣いができる女性だったので、相手に頼みごとをしたり、負荷のかかるような何かを言わねばならないときは、その負荷を自分の方で先取りして、微かに声帯を潰し気味に声を出す癖がある。優しい心の持ち主。そのように聞こえたその声を、私は明らかに彼女のものだと確信した。

声はその四文字しか発していないのに、「あなたの用件は承知したわ」と引き受けたのではなく、「やるべき用件は承知しているわね」と念押ししたのだということが、ありありとわかる。懐かしくてたまらず、彼女の名を呼んだり何度も話しかけたりするが、何を言ってもMは沈黙したまま。このまま話が通じなければ、もう二度と逢えないかもしれないという気がして、彼女を求める強い声音でMの名を呼んだところで目が醒めた。夢だった。

後になって、「用件承知」という言葉が、かなり奇妙であることに思い至った。Mはそんな話し方をしないし、そもそも四文字熟語だけで話しかける女性なんていないだろう。

一人だけ、ぽーんと一語だけを自分にぶつけてくる存在があって、(以下、その存在をGと呼ぶ)、「cadeau」とか「田中」とか他いろいろと、急に一時的にだけチューニングが合ったラジオのように、頭上から言葉を投げかけてくれる。最初に「cadeau」という「贈り物」を意味するフランス語を聞いたときは、その一語にあまりにも多くの重層性が込められていることに、心底驚かされた。

しばし考え込んで、今朝私はこう呟いた。今回も凄いな。

Mだとはっきり確信して、彼女に何度も呼びかけているのに、彼女が沈黙したまま何の反応もしなかったとき、今朝観た『黒蜥蜴』の或る場面が卒然と思い出された。

57:14以降、無線機の伏線が処理されたのかどうか気になって、今朝注意してこの場面を見ていた。西陣織の特注のソファーは、座面の下に人間が隠れられる空間があって、この場面では当初は明智が中に入っているように観客には見える。しかし、実はそこには猿轡を咬まされた身代わりの老人が入っていて、明智は無線機か何かを使って、黒蜥蜴と会話しているのである。まとめると、そこにあるのは、「身代わりの身体」とトランシーバーを介した「明智の声」だ。

ところが、ある瞬間から、明智はうんともすんとも言わなくなり、ソファーは屈強な男たちによって縛り上げられ、ソファーと二人きりになった黒蜥蜴は、ソファーの中にいると信じている無言の明智に、繰り返し愛の告白とソファーの座面へのキスを贈ることになる。この場面でも、映画の最後でも、二人は結ばれない運命にある。

 夢の中の暗がりで見たMは、少し面やつれしたように見えた。心優しいMは、話しかけてくる相手を無視できるような女性ではない。Mの痩せた顔に何度話しかけても、彼女が何も答えなかったのは、彼女の身体は「身代わり」で、メッセージを送っているのはGだということを、今朝私が観ていた映画のことまで知っているGが、(そんな離れ業ができるのはGしかいないという確信とともに)、私に気付かせようとしているのだろう。

そして、Gがこれまでは天上から言葉を投げかけるだけだったのに、今回ばかりはMの身体を借りて「やるべき用件は承知しているわね」と伝えてきたのには、その「用件」を済ませれば、「かつての二人の夢」が叶って、面やつれしたMに喜びの表情を取り戻せるかもしれないことを示唆しているのではないだろうか。たとえ、二人が最終的に結ばれることは、もはやないにしても。

 小さな夢の記憶のかけらから、自分勝手な願望を膨張させて、荒唐無稽な話を語っているように見えるだろうか。こういう話を信じてもらえないこともわかっているし、信じない人たちのために、ここまでの文章を「醒め際に見た夢の印象のせいで、やるべき用件に向き合うことができた」くらいに要約したって一向にかまわない。そう要約できたら、本当はずっともっと楽なのかもしれない。けれど、ここ半年くらい、超自然的な神秘体験がポツポツと自分を打ちつづけているせいで、もう自分は雨が降るのがわかっている気になっていて、雨が降り出したら、その中を駈け出したい気分になっている。

木曜日に書き始めたこの記事がどこか「スッキリ」しないのは、ゼロ年代は「リトル・ピープルの時代」という印象的な評言を、ある著書の中で目にしたからかもしれない。 

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

リトル・ピープルの時代 (幻冬舎文庫)

 

その本の中では、「リトル・ピープル」は村上春樹の造語だとして、全体主義的独裁者の「ビッグ・ブラザー」ではなく、ITの進化のおかげで、ネットユーザーに代表される「リトル・ピープル」の時代が到来したのだと語られていた。基調にあるのは、カルチュラル・スタディーズネグリ=ハートの「マルチチュード」の掛け算だろうか。時代の大きな枠組みとしてはその通りなのだろう。けれど、そのパースペクティブの片隅に、誰かのリクエストに応えて、ラジオからジョン・レノンの歌が流れるだけの隙間くらいは、どうか確保しておいてほしいと感じてしまう。

ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男

ジョン・レノン暗殺―アメリカの狂気に殺された男

 

 仮に、軍産複合体と関わりの深い「ビッグ・ブラザー」的超国家的主体が、か弱い一人の私人を、ケネディー大統領暗殺時のオズワルドと同じく、暗殺者に仕立て上げていたとしたら、この世界を見る目は変わるのかもしれない。

ジョン・レノンを殺した男

ジョン・レノンを殺した男

 

 そのか弱き私人が、幼い頃から、他の人には見えない精霊や小人のような「リトル・ピープル」を見慣れた青年で、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の愛読者だったとしたら、村上文学を見る目は変わるのかもしれない。

ゼロ年代を代表する批評家の目にも、世界の輪郭が明瞭につかめないほど、世界の変化や情報の錯綜は激しく苛烈なのだという実感を、また新たにしてしまう。

純然たる勘に基づいていえば、現代を「リトル・ピープルの時代」と語りうる時の「リトル・ピープル」とは、たぶんこの社会や自然に満ち満ちている不可視の神々や精霊や死者を指していることだろう。オノ・ヨーコの前衛芸術や仏教の深遠な教義を媒介として、そのような「リトル・ピープル」たちと交感できる高みに、ジョン・レノンは最終的に達した。

雨が降り出しそうな雲行きだが、傘の持ち合わせがないので、いずれ無防備な身体を雨に打たせて走り出さなければならない気がしている。

誰かのリクエストに応えて、ラジオからジョン・レノンの曲が流れ始めた。椅子に座り直して、駈け出す前の数分、耳を傾けることにしたい。

 

Oh my love, for the first time in my life
My eyes are wide open
Oh my love, for the first time in my life
My eyes can see

愛しい人 生まれて初めて
こんなにも広い世界が見える
愛しい人 生まれて初めて
こんなにもはっきりと世界が見える

I see the wind, oh, I see the trees
Everything is clear in my heart
I see the clouds, oh, I see the sky
Everything is clear in our world

風が見える 木々も見える
すべてが心にはっきりと映っている
雲が見える 空も見える
すべてがくっきりと世界の中にある

Oh my love, for the first time in my life
My mind is wide open
Oh my love, for the first time in my life
My mind can feel

愛しい人 生まれて初めて
こんなにも広い心でいられる
愛しい人 生まれて初めて
心でこんなにも感じることができる

I feel the sorrow, oh, I feel dreams
Everything is clear in my heart
I feel life, oh, I feel love
Everything is clear in our world

悲しみがわかる 夢がわかる
すべてが心にはっきりと映っている
生命がわかる 愛がわかる
すべてがくっきりと世界の中にある

子供たちの人生が盗まれつづけている

『破壊しに、と彼女は言う』

クールすぎるこのデュラスの小説名をが三人称複数形になって、現代アートのキュレーターによる美術批評となった。

 この「集団創作」も現代アートの範疇に入るのではないだろうか。『墓石にキスしに、と彼女たちは言う』とばかりに、90年代後半以来、パリまで出かけて墓石にキスマークを残す儀式が流行しているらしい。ヨカナーンの斬り落とされた首にキスする femme fatale の『サロメ』の作者、オスカー・ワイルドの墓の話だ。現在は墓石保護のために、キス専用のガラス柵が設けられているのだとか。

90年代前半に自分が訪れた時には、Oscar Wilde の墓碑銘の直後に、スプレーで「side」が書き加えられていた。名曲「Walk on the Wild Side」を歌ったルー・リードのファンが悪戯したのにちがいない。といっても別段、ルー・リードに罪があるわけではない。 

日本でワイルド・サイドを歩いているクールなロッカーと言えば、この人になるのではないだろうか。

自分が高校生だった頃、デビュー曲の「モニカ」を「もう2回」と言い換えて、「思春期の性欲猿の懇願」を諷刺する替え歌にする遊びが流行っていた。誰でも思いつく言い換えらしく、亡くなった尾崎豊も、酔っ払って同じ替え歌を仲間と絶叫していたらしい。その初々しいロック歌手も、今や『下町ロケット』で中小企業のひたむきな情熱に見せられる大企業の部長を好演する名俳優だ。

もうすこし少年じみた興味を引き延ばして付け足せば、水球の最優秀高校選手だった過去にふさわしく、吉川晃司は腕時計はオメガのシーマスター・アクアテラを愛用しているらしい。愛車の一台はアストン・マーチンで、彼以上に英国のスポーティーな高級車が似合う男はいないだろう。

吉川晃司と英国がつながったからには、Complex の相方で、2012年にロンドンへ移住した布袋寅泰に言及しないわけにはいかないだろう。代表作は、誰もが耳にしたことのあるこの曲だ。愛用の腕時計はランゲ&ゾーネで、愛車はベントレー・アルナージ。

この有名な「軍団」の登場場面で一群を率いて歩いてくる白装束の女を、タランティーノ監督は、美輪明宏にインスパイアされて造型したらしい。正確には、名字を「美輪」に代えるようにとの霊感が降りてくる前の「丸山」明宏による『黒蜥蜴』。原作は江戸川乱歩、脚本は三島由紀夫、監督はタランティーノが偏愛を寄せる深作欣二。豪華すぎる顔ぶれが勢揃いした探偵映画の名作だ。

現代の一般人が一番娯しめる三島由紀夫作品は『黒蜥蜴』で決まりだろう。ネタバレを犯して、その魅力を語りたくて、うずうずしてしまう。

映画の冒頭、何やら妖しげな秘密クラブで蠢く猥雑な男女たち。音楽はベンチャーズ調のロックより、「ダンモのズージャ」の方が良かったような気もするが、そこに登場する白黒の隠微なビアズレーの絵には往時の雰囲気をそそられてしまう。絵は「墓石にキスされる」オスカー・ワイルドの『サロメ』を描いたものだ。その秘密クラブの狂騒がブラックアウトして、黒蜥蜴の歌とともに女賊の丸山が登場する場面には、「時代遅れのロマンチスト」の面目躍如たる美しさと郷愁がある。

映画の最初のクライマックスは30:45頃。明智探偵に美しき令嬢の誘拐を見破られて逮捕される寸前、黒蜥蜴が明智の上着から盗み出しておいたピストルで形勢を逆転するところ。その直後の34:06に、女賊が「男装の麗人」となってホテルの警戒網をすり抜けていく場面の、若き丸山明宏の美しさも感動的だ。

その後、黒蜥蜴はまんまと令嬢の誘拐に成功し、彼女を餌にして絢爛豪華な宝石「エジプトの星」を盗み出す事にも成功するが、引き換えに返すはず令嬢は返さないまま、自分の「私設美術館」へと運び入れる。その私設美術館の展示物が、衝撃的なこれだ(1:07:03)。

「人間剥製」を演じているのは、ボディビルで鍛え上げた半裸の上半身を晒した三島由紀夫その人。

一瞬、フラッシュ・バックで再登場する1:13:47では、丸山明宏からのキスを受けて、人間剥製」であるのに、三島は少しフラフラしてしまっている。数秒間なら、身体を静止する演技は決して難しくないはず。それでもフラフラしているのは、鍛え上げた筋肉に力を入れて際立たせようとしているからで、しかもその懸命な努力による「ディフィニション」が、アングルのせいで少しも映っていないところが、何とも言えず可愛らしい。淀川長治がかつて「三島さんが愛されるのは、赤ちゃん精神の持ち主だから」と語った意味が、分かるような気がする。文豪らしからぬ「ひたむきな愛らしさ」が、三島由紀夫の魅力の根源にあると自分は考えている。

ところで、上の記事で語った宮崎駿江戸川乱歩好きが本物だということが、この映画を見ればよくわかるだろう。

54:18からの、追っ手の前に手下たちが遊撃的に煙幕を張って攪乱する場面は、陸上と空中の違いはあるものの、『天空の城ラピュタ』で海賊たちが逃亡する場面で引用されていた。きわめつけは、追いつめられた黒蜥蜴が、服毒自殺を図って朦朧としながらも、恋に落ちた相手の明智にこのように囁く場面。

黒蜥蜴:捕まったから死ぬのではないの。

明智:わかっている。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聞きに、何もかも聞かれたから。

明智:真実を聞くのは一等辛かった。ぼくはそういうことには慣れていない。

黒蜥蜴:男の中で一等卑劣なあなた。これ以上見事に女の心を踏みにじることはできないわ。

明智:すまなかった。…しかし、仕方がない。あなたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だったわ。あなたはとっくに盗んでいた。私はあなたの心を探したの。探して、探して、探しぬいたわ。いまやっと捕まえてみせた。…冷たい石ころを。

明智:しかし、ぼくも…

黒蜥蜴:言わないで。あなたの本当の心を見ないで死にたいから。…でも、嬉しいわ。

明智:何が。

黒蜥蜴:嬉しいわ。あなたが生きている…(絶命する)

明智:…ぼくは知っていた。きみの心は本当のダイヤだと。…本物の宝石は死んでしまった。

 これらの切ないロマンティックの台詞群が、あの銭形警部の生涯最大の名言へと反響していることは、もうおわかりだろう。一方に古典的名作があり、一方にそれを更新していく革新者がいる。

銭形警部:くそー。ルパンの奴め、まんまと盗みおって。

クラリス:いいえ、あの方は何も取らなかったわ。私のために戦ってくださったんです。

銭形警部:いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。  

さて、美輪明宏がどんな時計をしているか、どんな車に乗っているかについては、情報があまりない。

実は、この記事を書きながら、いけないいけないと思いつつも、どどこ上の空で、どうしても自分が欲しい時計のことばかりを考えていた。政治家のように偉くなければ入手できない時計なのかもしれない。その時計に興味があるのは自分だけではないらしく、この福島出身の政治家の時計の話で、ネットはかなり盛り上がった。

 2016年、永田町で0.8μSvの放射能被爆が存在することを、この自民党の政治家は全世界に公表したが、それが「軍隊の即時撤退レベル0.3μSv」であるとわかると、そのツイートをすぐに削除してしまった。あれ、おかしいな? 野党時代には「政府は子供の被爆を隠している」と指弾していたのに。

原発事故で人生を無茶苦茶にされた県民ばかりの福島出身でありながら、「国民生活を破壊しに、と彼女は言う」つもりなのだろうか。

https://twitter.com/lllpuplll/status/466871388960063488

 放射能被爆が、細胞分裂の頻繁な低年齢であればあれほど、有害性が高いのはよく知られた話だ。0歳児の放射能の有害度は60歳以上の老人の300倍だとされている。変節漢ではない「子供を被爆から守る」専門医の一人は、小児科医としての豊富な臨床経験に基づいて、こんな恐ろしい話をしている。興味深い発言を適宜引用しよう。

「東京は、もはや住み続ける場所ではない」

「残念なことに、東京都民は被災地を哀れむ立場にはありません。なぜなら、都民も同じく事故の犠牲者なのです。対処できる時間は、もうわずかしか残されていません」

「首都圏においては状況がどんどんどんどん悪くなっている。今でも進行している」

「大人が頑張って対応すれば住めるかなと思ったけど、1年半くらいで諦めた」
「基本的に汚染されたモノを燃やしてはいけないのに、燃やしちゃうし。基準を緩めて汚染を拡大しようとしていると思われる」 

 吉川晃司、布袋寅泰美輪明宏とつないで記事を書きながら、ずっとガイガー・カウンター付きの時計のことが自分の頭を離れなかったのは、きっとこの3人に放射能にまつわる共通性があるせいだろう。

美輪明宏は少年時代に長崎の原爆投下を体験した被爆一世、吉川晃司は父が広島の原爆で被爆した被爆二世、布袋寅泰は東京からロンドンへ家族ぐるみで移住した放射能被爆忌避者。

何の罪もない子供たちが人生を盗まれつづけている国で、私たちは生きていかなければならない。政府は必ず嘘をつく。あなたが漠然と信じている固定観念は捏造と歪曲に満ちた嘘かもしれない。Search for Your Future on the Internet. 生死を分ける真の情報はネット上にしかない。

Sky is the Limit

 瞠ける蒼き瞳を縫い閉じにいくごとく飛ぶセスナ機一機

 半年くらいの自分の短歌キャリアの中で、記憶している自作の歌はこれくらいだ。興味を持ってもらえるか不安だが、こんなわずか一首の学生短歌の背景にも、先行テクストが2つあるのが、作者の自分にはわかってしまう。

ひとつは、寺山修司の『田園に死す』にある一首。

地平線縫い閉じむため針箱に 姉がかくしておきし絹針

「瞠ける蒼き瞳」には、魚眼レンズで見たときの青空をイメージさせる狙いがある。このように瞳が自在に伸縮する発想は、「瞳」を主題にした詩を多く持つシュルレアリスムの詩人ポール・エリュアールに負うところがありそうだ。

それらを引き算しても残る、自分にとって固有のものがその歌には二つ隠れているような気がする。ひとつは「縫い閉じられた瞳」という身体毀損のイメージ。たぶんそれには、クリステヴァがよく論じる母体切り離しによる幼児の抑鬱状態が関係しているのだろう。

そして、もう一つは「ベクトルの垂直性」。自分は第二次ベビーブームの真っ只中に生まれた団塊ジュニア世代の一員で、ご丁寧にも10歳まで本当に大学教員向け官舎で育ち、しかもエレベーターなしの5階に住んでいた。何度高所から転落する夢を見たかしれない。(どこまで関係あるか自身はないけれど、このブログでも随分「垂直移動筐体=エレベーター」を主題にして文章を書いた)。

国や時代はまったく異なるが、フランスの低所得者層向けの集合住宅で育った移民の若者たちの閉塞感を描いた『憎しみ』が、冒頭に、集合住宅の屋上から?何かが垂直落下したあとに、路上の車がボッと燃えあがる場面を置いているのは、感覚的によくわかる。団地育ちのせいで、水平方向だけでなく垂直方向への空間感覚が発達していて、当然そこでは重力とどう戦うか、つまりは「転落への抵抗」が最初に刷り込まれる取り組み課題となる。あの映画も同じだったと思う。

憎しみ 【ブルーレイ&DVDセット】 [Blu-ray]

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歌の中では、横たわっている「私」が真上に広がる青空を垂直に見上げつつ、その青空をセスナ機が飛行機雲を吐きながら横切ろうとしている風景と、自分の瞳が縫い閉じられる瞬間に針と糸とが視野を横切る「最後の風景」とが、重ね合わされている。

と、こんなことをふと思い出したのは、昨晩東温市の雪交じりの田園風景を、魚眼レンズ効果を使って撮影した写真群を見たから。15歳の夏、東温市にある大学病院に長期入院していたのを思い出したのだ。入院している子供たちは難病の子供ばかりで、自分も20代までの生命との事実上の宣告をもらっていた。レギュラーだったもののサッカー部の最後の大会には出場できず、試合当日には、サッカーのユニホームを着て病床で横たわっていた。

小児科で15歳と言えば、最年長の餓鬼大将だ。「手下たち」を引き連れて一番熱中した遊びは、紙飛行機を病院の屋上から飛ばすこと。紙飛行機と云っても、長方形の紙を折り畳んで数秒でできるものではなく、型紙を切り抜いてボンドで張り合わせて、ゴムカタパルトという発射装置で飛ばす高性能紙飛行機のことだ。

高性能紙飛行機: その設計・製作・飛行技術のすべて

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 大学病院には精神科もあったので、当然屋上には自殺を防止するため高い防護柵が張りめぐらされていた。これでは、屋上から紙飛行機を飛ばすことはできない。屋上の一角、大人がやっとよじ登れるような梯子があるのを見つけて、屋上屋を架すがごとく建っている給水塔によじ登った。登ってみると、そこには柵も何もない。強風が吹けば転落死するかもしれない。そう思うと足が竦んだ。震える足で地面をしっかり踏みしめて、青空へ向けて紙飛行機を飛ばした。

真下へ墜落するもの紙飛行機もあれば、大学病院の敷地外まではるばる飛んでいく紙飛行機もあった。稀に、イカルスのように上昇気流に乗って、あれよあれよという間に太陽の周りにある眩しい光域へと昇っていき、遠ざかる機影がそのまま光の中へと溶け入ってしまうこともあった。「手下たち」は高所の恐怖でうずくまりながらも、口々に歓声を上げた。闘病仲間たちが次々に死んでいくので、自分たちもこの病院の敷地から永遠に出られないかもしれない可能性に、誰もが怯えていた。

恐怖と希望と。太陽へ溶け入って消えていった紙飛行機を、そんな相反する感情を抱いて、自分も含めた難病の子供たちは見つめていたように思う。

現代の子供たちが夢中になって遊ぶとしたら、もはや紙飛行機ではなく、ドローンということになるのだろう。このドローンという新しい革命的ガジェットをめぐって、(裏)社会の動きから機敏にその意図を読み取って、「不正選挙の追及や原発事故現場の撮影をさせないために、まもなくドローンを使った「事故」か「事件」を裏社会が意図的に引き起こす」と予言して、見事に的中させてしまった活動家がいたのを思い出した。(引用者が引用部分の一部を分かりやすくしました)。

 もしドローン関係の事件、工作が起きたら「開票所でドローンを飛ばさせない為、真実を追求させない為の検閲である!」と叫びましょう。

上記の記事が書かれたのが、2015年4月13日。その直後の4月22日に、首相官邸の屋上にドローンが落下したので、「予言」は当たったことになる。ぞの事件を契機に、ドローン規制があっという間に制定されたのは周知の通りだ。首相官邸落下事件が自作自演だったかどうかについては、数多く投稿されたブログ記事を自分の目で確認してほしい。彼のような「裏真実界」の闘士のそれぞれにおいて、部分的に意見が一致しないことはよくあるが、このドローン事件への彼の鋭い解釈については、ほぼ完全に賛成できる。

ドローン | さゆふらっとまうんどのHP ブログ

社会はこのようにしてmanipulateされている。そして、それは1%グローバリストたちにとって「経済合理性」を満たした「操作」なので、実は超能力なしで予言できるほど読み取り可能なものなのである。必要なのは、情報リテラシーと経験だけだ。

少年時代、恐怖と希望を抱きながら、紙飛行機が太陽へ溶け入って消えるのを見ていたのを思い出すたびに、あの眩しすぎる機影と二重写しになる小説がある。

リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町には人なんか住んでいないよ、あれは鳥さ。わからないのか?(…)鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔してるよ、俺が見ようとする物を俺から隠してるんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ。 

限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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 ドラッグの幻覚症状の中で溢れてくる言葉。「この『鳥』をどのように解釈しますか?」という問いに、どうしても誘われてしまう小説の最終場面の一部だ。

読み直さずにこの場面だけで判断すると、おそらく「鳥」は「幻覚」か「現実」のどちらかで、前者なら、ドラッグは快美感だけでなく恐怖感も同時に増長させるので、この場面では幻覚によって拡大した恐怖の方に囚われていると解釈できる。後者なら、ドラッグによる変性体験でとうとう「真実」に到達したと感じていたのに、トリップからの醒め際、その「真実」を覆い隠すように、凡庸で鈍感な「現実」が自分の感覚に分厚くまとわりついてくる失寵感となるだろう。

後者の解釈に沿ってもう一歩踏み込むと、トリップ体験のさなかでは、しばしば知覚する複数の対象の分別が利かなくなって、複数の対象が溶融してしまうことがある。ここで、主人公のリュウにとって、街を覆うかのように感じられる鳥は、SFじみた巨大な翼をもっているわけではない。ここでは飛び去りやすい「鳥」と、飛び去った後の「鳥の不在」が溶融してしまっているのである。というか、より正確には、ドラッグの醒め際、あるい醒め際のバッドトリップ状態で、それに深く関わる「鳥の不在」を、すでに飛び去ってしまった「鳥」としか形容できないのだろう。試しに、上記の引用部分に頻出する「鳥」を、すべて「鳥の不在」と言い換えると、論旨はあっけないほどわかりやすく伝わってくる。「鳥の不在」は、リュウが「鳥」に仮託した何物かを完全に排除して覆い尽くす鈍重な現実なのである。

そして、その「鳥の不在」そのものが、卓抜なタイトル「限りなく透明に近いブルー」によってパラフレーズされていることにも、注意を喚起しておきたい。「鳥」が飛び去ったあとの「鳥の不在」=「現実」は、ほぼ完全に透明だ。ただ、ほとんど見極めがつかないほどの微かな「鳥」の残像を除いて。

いま「鳥」と「鳥の不在」を反転させて、入れ替えてみた。「限りなく透明に近いブルー」を入れ替えた「限りなくブルーに近い透明」は、青空そのものだろう。

裏社会の自作自演工作によってドローン規制が敷かれ、イギリスで開票所が撮影されたときのように、スコットランド独立投票の不正を撮影することは、少し難しくなった。しかし、自撮り棒で机上の票が読み取れるように撮影確度を確保してもいい。他にも有効な方法はいくつかありそうだ。

青空そのものをイメージしながら、Sky is the Limit と呟いておきたい。人々がそれを真剣に願い、真剣に考え、真剣に実践するなら、可能性がはばたく高度は無限だと信じて。

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国破レテ山河アリ


 アクセルをベタ踏みして、何とか88マイルには達したが、思い描いていた未来へはとうとう到達できなかった。そんなニュースが飛び込んできた。

車好きで、同じデロリアンを所有していた映画評論家も、資金難から手放してしまったらしい。スーパーカー世代とも言われる世代は、少年心の中に乗りたい豪華車の一台や二台は抱いて、人生を歩んできた男たちなのだろう。しかし… Reality bites.

自分もその世代の一員なので、ご多聞に洩れず車好きだ。

 この記事で書いた兎たちは、地方都市の道路上でも繁殖していて、LAPINという軽自動車が走っているのをよく見かける。最近特に多くなったのは、「活動家」を意味するHUSTLERだろうか。それでも派手な車に乗っている人を稀に見かけることがあり、風の噂で運転手の素性まで伝わってくることもある。

  たぶんこの街には、フェラーリはゼロ台。見かけてもいつも県外ナンバーだ。数台走っているベントレーのうち1台は、隣町の開業医が乗り回しているらしい。ポルシェは、この地方でも人気車で、そのうちの一台はブティックホテルの経営者のもの。自分が東京にいたとき惚れていた当時の英国純血種XK8にも出遭うこともあって、昔の彼女に再会したような気になり、つい追いかけたくなってしまう。あの「ジャギュア*1」の持ち主がどんな人なのかはまだわかっていない。(現在は自分が偏愛を寄せる車は、まったく違う車になってしまった)。

ともあれ、この界隈でいちばん目立っているのは、何と言っても、温泉と文学の街には似つかわしくない爆音を響かせるランボルギーニだろう。

ランボルギーニには一度も乗ったことがないので、引用した記事が正確かどうか自信がない)。

あの派手なランボルギーニを街角で見かけるたびに、「アベさんが好きだな」とか、「アベさんにもっと政治をやってほしい」とか、心の中で呟いてしまう。

おっと、いけない。ご本人もあのように「大変迷惑している」とおっしゃっている。誤解を招くようなひとりごとは慎まなければ。ケーキのフォレ・ノワールを生んだアルザス地方近くの森から現れたジャンヌ・ダルクではなく、「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」こと、阿部元県議会議員の話だ。

2011年、震災瓦礫の受け入れ自治体を国が募ったところ、日本一の受け入れ可能量を示して、勇躍元気良く挙手したのが、愛媛県

 それに対して、敢然と立ち向って議会で反対質問ができたのは、この人ひとりだった。

「復興のため、ガレキを受け入れよ」という県民に対して、徳島県知事は次のように回答しています。「放射性物質は、封じ込め、拡散させないことが原則」「東日本震災が起こる前は、国際基準により、キロ当たり100ベクレルを超える場合は、特別な管理下に置かれ、低レベル放射性廃棄物処分場に封じ込めてきた。しかし、国は従来の基準の80倍、8千ベクレルを広域処理の基準に転用して埋め立て処理させている。」「フランスやドイツでは低レベル放射性廃棄物処分場は、国内に1か所だけで注意深く保管されている。」 

 http://www.muse.dti.ne.jp/~hiroba/hibi201203gatsu/hibi20120320.htm

当たり前と言えば当たり前すぎるこの程度の話を、まともに政治の現場で展開できた人が、どれだけいだろうか。当時の彼女の日録を丁寧に読めば、それが数十年連れ添った家族との永遠の別れと並行して行われた偉業だったことがわかる。

勝手に付言すれば、放射能汚染された震災瓦礫の広域拡散には、上記リンク先の質問趣意書で強調されている「産廃利権」誘導だけでなく、放射能被爆の被害を意図的に全国へ拡散することによって、福島や東北の放射能被害とのコントラストを弱めることが意図されていたように思う。「そんなことくらいなら、全国各地で起こっている」。そのような誤魔化しと隠蔽の台詞が用意されていたようにも感じられるのは、3.11当時の首相の秘書を務めていた人物のこの発言に、一定の信憑性があると思われるからだ。この発言が100%嘘であることは考えにくい。事実、地方の瓦礫焼却の現場では、放射線線量の上昇や健康被害が報告されている。

 幸いなことに、震災瓦礫の受け入れは実現しなかったらしい。おかげで、いくらかは平静な気持ちで、街角を疾走するランボルギーニを見守ることができるというものだ。乗り回しているのは地元の産廃業者の社長で、自分の記憶にはないが、小学校時代の同級生らしい。文字通り桁外れな彼の年収の噂も聞くが、別段、仕事で稼いだお金で誰がどんな車に乗ろうとかまわないと思う。その仕事で、誰かが回復不能なほど深く傷つくことさえなければ。

人間の倫理感覚の発達は、自身の経済力に比例する部分があるとも言われる。平均して年収約600万円に達すると、社会貢献意欲が芽生えるのだとか。その閾値に多少の個人差があるのは当然だろう。その「多少」が十数倍の差になることもあるのか、そんな極端なことはめったにないのか、そんな問いを練習問題として考えながら、一人でも多くの人々が何らかの形で社会貢献する瞬間を持てたら良いと思う。

この記事で、アフガンの地で用水路建設に専心した中村哲医師のことを書いた。中村医師は、宮沢賢治にゆかりのある「イーハトーブ賞」を受賞している。宮沢賢治は詩人や童話作家であるだけでなく、地元の貧農たちに稲作や肥料のやり方を指導する「活動家」の側面も持っていた。その側面に対しては「イーハトーブ賞」、文学的な業績に対しては「宮沢賢治賞」という風に二分割して、賢治に連なる人々が顕彰されているらしい。

その受賞歴の記録から、『宮沢賢治とディープエコロジー』なる書物が世に問われたことを知った。環境問題やエコロジーの観点から宮沢賢治が注目されるのは、環境思想の源流となったエマソンーソローの系譜の自然観と、賢治の世界観に共通性があるからだろう。

エマソンは『自然』の中で、「大霊」という概念を持ち出して、こう語っている。

大霊(oversoul)という神性は自然全体にも備わっていて、人は自然を愛し、文明の束縛から自由になったとき、はじめて、自然の神髄である知恵と力と美に近づくことができる

「大霊」という概念はソローにも受け継がれていて、自然界にある動植物を通じて、それらの生命の中に隈なく浸透している大霊(oversoul)と交感することに、人間の生き方を見出していくべきだとソローは考えた。「超絶主義思想」とも言われるこの環境思想の立場から、宮沢賢治は意外に近い場所にいる。例えば、「種山ヶ原」のこの部分。

ああ何もかもが透明だ

雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに

風も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され

じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で

それをわたくしが感ずることは

水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ

 ヘッチヘッチ論争にみられるように、現代の環境思想においては、しばしば「人間中心主義」と「生態系中心主義」の対立が顕在化しており、功利主義的な資本主義社会において前者から後者へ移行することの困難が語られることが多い。一部のディープ・エコロジストの中には、「人間が完全に存在しない方が環境に良い」という極端な主張をする論客もおり、それがまた折り悪しく1%グローバリストによる「人口削減計画」の奸計と親和性をもっていたりもするので、どうにも厄介だ。

そんな中、人間の生命と人間以外の生命体を渾然一体たるものとして捉える宮沢賢治の世界観には、自然と人間とを関係づける諸思想のうち、両極への極端な針の揺れを伴わない揺るぎのない強靭さがあるので、魅力的に見える。いずれにしろ、日本の環境思想が、宮沢賢治をその源流として、歴史づけられるべきなのは間違いないだろう。

 さて、震災瓦礫が持ち込まれる予定だったのは、「杉丘市」の隣町だった。その隣町の美しい自然に魅せられて移住し、宮沢賢治にも通じる自然への繊細な感性に動かされて、自然を記録した紹介動画を作っている人を発見した。

RAPT | Welcome to TOON CITY「愛媛県東温市」のイメージビデオを作りました。

この隣町はまた、「となり町戦争」のロケ地にもなったことでも知られている。

3.11東日本大震災原発事故、その情報をも隠蔽可能な秘密保護法案の成立、まもなく間違いなく来る金融恐慌、そこで勃発するやもしれない戦争、その後の窮乏で蜂起するだろう反政府運動を取り締まるための共謀罪法案通過。……

シナリオは着々と進められている。

「となり町戦争」の役場担当者による人を喰った「広報」ぶりが面白かったので、少しだけパロディー化を施してみた。

Q なんで戦争やってるんですか?
A それは町の活性化のため、つまり町おこしの一環です。

Q 誰が戦っているんですか?
A 自治体規模の戦争に国家公務員は参加できません。志願していただいた一般町民です。

Q ・・・・・・・・・・・
A 他に質問がなければ、戦地へお向かいください。

 以上が元のやり取り。日本の現状に当てはめてアクチュアルなやり取りに改変するなら、こんな感じだろうか。

Q なんで戦争やってるんですか?
A 軍産複合体の活性化のため、つまり「死の商人」たちの金儲けのためです。

Q 誰が戦っているんですか?
A 超国家的存在である1%グローバリストは、国家間の戦争に参加できません。私たちは兵器や軍資金を両国に同時に融通して儲けるだけです。戦場で戦うのは、その下位レベルの志願した一般国民です。

Q ・・・・・・・・・・・
A 他に質問がなければ、戦地へお向かいください。

 国破れて山河あり。そんな有名な漢詩の一節を呟けば、想起されるのはこれらの写真群だ。撮影者はポーランドの写真家。

戦後さまざまな局地戦で日本は敗れてきた。現在の私たちは、過去の私たちが思い描いていた場所へ辿りつけているのだろうか。現在の私たちは、いま思い描いている未来の場所へ到達できるのだろうか。

写真にあるこの国の美しい自然の一端を見つめながら、そんな問いを、私たちは、噛みつづけると苦くなっていく薬草のように、反芻しつづけなければならないだろう。

*1:大江健三郎伊丹十三ジャガーをこのように呼ぶ。

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ザギン・シースー・クリス

「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」。

このようなブログの記事でも、最終着地点をどこへ持っていくかには結構苦労してしまう。「最後の一行が決まらないと書き出せない」とは意識家の三島由紀夫の愛用句だったが、もとより浅学菲才の身、最近は急いで書いていることもあって、話にどんな落ちをつけるか、記事にどんなタイトルをつけるかは、書きながら考えることが多い。

或る私大に通っていた頃、新設の劇団が旗揚げ公演をすると聞いて、観に行ったことがあった。「マングローブ」というタイトルで、芝居の始まりと終わりに女優が出てきて、ちょっとしたモダンダンス的な動きとともに、マングローブに関する台詞をモノローグで語っていた。なぜそんな詳細を語りたがるかといえば、のちの日本を代表する俳優の東京初舞台に立ち会ったことを光栄に思う気持ちからだ。

その劇場には「双数姉妹」という劇団もあって、自分はそちらの劇団の方が好きだった。かといって、自分の「双子の姉妹」好きは、その劇団名に由来したわけでもなさそうだ。

ふたりっ子』でお茶の間の人気者になったマナカナ姉妹の一方が、もう一方と街角で待ち合わせていて、ある方角を向いたときに、相手が現れてあっと大喜びで手を振ったら、相手も大喜びで手を振ってきて、その相手が鏡の中の自分だと気づくまでに数秒かかった、なんていう話には胸がキュンとしてしまう。双子の姉妹という存在に、どこか奇跡を感じてしまう。「ザギンでシースー」な感じの業界関係者の毒には、どうか染まらないでいてほしい。

知人のテレビ関係者からは、あんな言葉遣いはしたことがないとも聞いた。しかし、ビート族と呼ばれる若者たちは、確かにあのような言葉遣いをしたらしい。

ビートニクといえば、ケルアック、ギンズバーグバロウズの三人が通り相場で、私も小説の主人公を旅好きの「路彦」に設定したために、まずはこの三人を探査した。バロウズの代表作については、この記事で少し言及した。

そのバロウズも含めてビートニクの文学者たちには、自分が詩に求める繊細さが不足している気がして、どうもぴんと来なかったので、最終的には森山大道の写真集を携えて旅をする男として描き出した。

彼の身体の緊張が解けた。埠頭のコンクリート上を膝行すると、魔法めいた意外さで出現した自分のトランクの留め金を外して開いた。トランクの中には、一泊分の着替え、歯ブラシセット、一冊の本が整然と収まっている。本を手に取って開く。それは小B6版の小ぶりな路上写真集で、詩のわからない彼が、この前衛的な写真群に漂っている放浪のセンチメントにはすっかりいかれてしまって、若い頃あちこちへ旅するたびに、肌身離さず携行した一冊である。果てしない草原の消失店へ伸びる一本道が映っている。夜の闇の中で炎上する自動車が映っている。そして、荒涼たる夜の海の暗い波肌。…… 

ビートニク自体はアメリカ中心の文化現象で、日本に生息していたビート詩人や作家の話はあまり耳にしない。ギンズバーグばりの詩の朗読を、コルトレーンに捧げた白石かずこが、それに最も近い文学者だと言えそうだ。

それがビートニクなのかどうかはもはや不分明だが、コルトレーンに心酔した純文学小説と云えば、中上健次の『十九歳のジェイコブ』となるだろう。ジャズやドラッグ(睡眠薬ハイミナールなどに)まみれた若者たちに満ちていて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』に近縁性のある世界が描かれている。ついでに付記すれば、村上龍の小説に「ケンジ」という登場人物が出現したときは、中上健次がどのようにどの程度に投影されているかを疑わなければならない。この疑似ブラザーの関係には要注意だ。

同じくモダン・ジャズを大音量で背景に流し、ドラッグでラリった若者たちを描いた傑作短編がある。三島由紀夫の『月』と『葡萄パン』だ。後者は英訳までされている。

 ジャックは二十二歳で、透明な結晶体だった。自分を透明人間にしてしまおう、とつねづね思っていた。

 英語が得意で、アルバイトにSFの翻訳をしていて、自殺未遂の経験があり、痩せて、美しい白い象牙づくりの顔をしていた。どんなに殴ったって、反応を示しそうもない顔だから、誰も殴りはしなかった。
「あいつに向って、ぴゅっと駆け出していってぶつかったらよ、知らない間にあいつの体を通り抜けちゃってるような気がするぜ、ほんと」
 とモダン・ジャズの店に来ていた一人がジャックを評した。

 この「葡萄パン」からの引用部分が、村上春樹に似ているとの指摘もネット上にはある。しかし、短編全体を読めば似ても似つかないもので、同じ「ビート族」(三島がそう命名したらしい)を扱った「月」は、個人的に三島文学の中で最も好きな短編だ。書き出しからして、持っている本が震えてしまうほど可笑しい。

「みんなうるさい。藷ばっかりだ、奴らは。三人で教会へ呑みに行こう。しんみりとな」

 とハイミナーラが言った。

「しんしんみりみりとまいりましょう」

 とキー子が言った。

「蝋燭を買わなくちゃ」

とピータアが言った。

「ハイミナーラ」とは、トリップ目的でビート族が濫用していた睡眠薬の名前が渾名になった青年のこと。三人目の「ピータア」のモデルになった人物が、三島との交流を記した本を見つけて、今朝ひといきに読了した。

呵呵大将: 我が友、三島由紀夫

呵呵大将: 我が友、三島由紀夫

 

 ビート・カフェで大音量のモダン・ジャズに身体を揺らしながら、初対面のピータアは三島由紀夫にこんな文学談義をぶつけたという。

ピエール・ガスカールの『種子』という小説(…)が見事な日本語になっていたのは確かで、洒落のめした日常の詩のような感じを受けたんです。あの頃、大江健三郎の『飼育』や『芽むしり仔撃ち』を読んだ時も(…)同じ翻訳日本語調の香りを感じたんだよなあ。

 おっと、吃驚。危険ドラッグでラリっている現代の巷のジャンキーは絶対に知らないexcellentな教養だ。自分は不幸にして、初期大江へのガスカールからの影響を知っている人にはほとんど会ったことがない。それは良いとしても、『取り替え子』以降も続々と凄い小説を書いているのに、大江健三郎がこの国の人々にあまり読まれていないことの不幸は、看過しがたいなと感じる。(ちなみに大江健三郎にも、ジャズのあり方に「抵抗性」を読み取った好エッセイがある)。

『呵呵大将』の中には、何人かの往時の芸能人の逸話がイニシャルで出てきた。純然たる勘でいうと、Kという美しい女優はこの人だったのではないだろうか。(『月曜日のユカ』で相手役を務めた若いハンサム男優は、現在「ねじねじ親分」の異名をとるあの人)。 

さて、文学に話を戻そう。純文学の衰退が叫ばれて久しい昨今、純文学における名台詞をリストアップして、どんどん日常生活で使っていく運動を展開していかなければならないとの責任感に、勝手に自分は駆られている。

 以前、太宰治の『斜陽』にある台詞のやり取りの一部が、日常生活で何を食べようか提案するときに使えることをどこかに書いた。

「しくじった。惚れちゃった」

とその人は言って、笑った。(…)

「しくじった」とその男は、また一言った。「行くところまで行くか」

「キザですわ」

 ひとこと、「ピザですわ」と言い換えればよいだけなので、誰でも応用できるほど簡単だが、応用できる場面が少なすぎるのが難点だ。

 三島由紀夫の最高傑作『春の雪』からは、聡子との禁断の愛に敗れた清顕が、病死していく間際、親友の本田に輪廻転生を予言する名高い台詞をノミネートさせたい。

今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で。

 これは、応用できる場面が多いので問題なさそうに見えるが、応用によって生じる興趣やおかしみが全くないことが障害になりそうだ。

例えば、妻に「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。自宅の天井の下で」といったところで、妻は無表情に「そうでしょうね」と呟くだけだろう。

 そこでお勧めしたいのが「月」の中に出てくるこの台詞。黒幕を気取ったハイミナーラが「虹のような思考」をめぐらせて、年下の男女2人に愛し合う恋人ごっこをさせようとして失敗したときの言葉。

「そこで接吻(スーキ)してごらん」

 とハイミナーラが言った。

 キー子は目をつぶり、唇をうすくあけ、わざとらしく胸を大きく波打たせていた。ピータアは彼女が床の上にさしのべている手に触れてそれをそっと握った。(…)

「スーキもできないのか。純真なもんだな。十九の娘と十八の小僧が、ダンモのズージャの伴奏でよ、何て可愛らしいんだろう、とりあった手が慄えてさ」

 ダンモの… ズ-ジャ… 三島由紀夫という不世出の憂国の作家の偶像を打ち破るような破壊力が、その逆さま言葉にあるような気がして、一瞬ではあるものの、くらっとよろめいてしまう。尤も、三島は几帳面に行ったビート族への取材を、小説に律儀に反映させているだけだ。「藷とは、あの馬鈴薯と同じ藷か」とか「どうして髙木をギイタカにように逆さまに呼ぶのか」とか、取材はビート族の生きざまの細部にまで行き渡ったらしい。

ただ、このハイミナーラの台詞が、「純文学名台詞日常化運動」において、決定的な切り札になることは間違いないだろう。「お寿司を食べに行こう」と言って断られたら、「何だよ、スーシーにも行けないのか、ダンモのズージャの伴奏でよ」と切り返せばいい。応用編として「ちょっと本を取って」と頼んで取ってもらえなかったら、「何だよ、ホトチョもできないのか、ダンモのズージャの伴奏でよ」と捨て台詞を吐けば、せいせいするだろう。もはや、その場面の背景でモダン・ジャズが鳴っているかどうかは、さしたる問題ではない。

と、ここで冒頭の問いに逢着してしまった。「どうやって文章に落ちをつけるか」「どうやって文章をおしまいにするか」。どうしよう。

無論、考えがまったくないわけではない。 さしあたり、今晩のこの記事でだけ、やたら無理をして笑いを取りに行こうとしたことの excuse として、「これを読んでいるはずはないけれど、どこかの仲良し姉妹を何とかして一瞬でも笑わせたくて」と書く。その後に、「月」の中で登場人物たちが濫用していた「スリク(=クスリ=ドラッグ)」に彼らが病死や入院に至るほどの「クリス(=リスク)」があったことに触れて、「ザギン・シースー・クリス」を示唆する資料を示せばよいだろう。取扱いにかなりの機微を要する情報だが、わかりにくい隠語で示唆しているだけなので、どの方面へも決定的な傷をもたらすことはないはずだ。

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しかし、どう書けばよいのか。わからないことだらけだ。

さらに、「ザギン・シースー」的な伝統物を愛する種族に絡めて、歌舞伎の新作の演目を最後に書いたのが三島由紀夫であることを書き加えた方が良いのか、それとも必要ないのか。「ザギン・シースー・クリス」に絡めて、アメリカのビートニクが日本文化へ影響したのとは逆方向に、「クリス」という名にちなんで、日本文化がアメリカ人へ影響したというベクトルを引けば良いのか、必要ないのか。

さらには、必ずしも明確でない因果関係をもとに、他人の人生に容喙するつもりはまったくないことを表明しつつ、ただ、たとえ一方が発症平均年齢57.4才の乳癌に30代前半で罹患したとしても、誰よりも仲良しで知られる二人姉妹が、少なくとも二人の引退までは二人姉妹でありつづけることを見届けたいという傍観者の勝手な祈りを、実はこの文章を書き始めた時からずっと抱いていたことを告白すれば、心が「落ちつく」のか、文章をお「しまい」にできるのかどうか。

 

 

 

(この記事を書いて7日後に、妹さんが亡くなりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)。