現代思想のなかのプルースト

現代思想のなかのプルースト

 

 

 

(多忙です。火曜午前中までに、これを含め、3本書けばよい計算ですね。頑張りますが、できるかどうかは不明です)

バイバイ、テパタン

「答案と解答を突き合わせよ」とのメッセージが、年少の友人から来ているような気がする。あの話をするべき時宜が整ったということなのかもしれない。

もう率直に書いてしまうが、どういう理由からか神秘体験に愛されている自分は、時々そこにいない人の声が聞こえることがある。

 45日前に以下の記事を書いたとき、冒頭の数段落を書いて中断したあと、女性の声が聞こえた。

ひょっとしたら単に彼女はブラッド・ピットのファンだったのかもしれない。

「王子様だ」と彼女は言ったようだった。この件について、年初の友人たちから示唆はもらっていないが、彼女自身は自作の文章でその三文字を比較的よく使うので、これは文字通り「タイミング」や細部が大きな意味を持ってくる話だろう。

「~だ」の部分には自信があって、「~かも」「~だったりして」「~な気がする」「だということもありえます」ではない感じが明確に伝わってきた。頻用するとはいえ、その場で彼女がその言葉を口にしたのは初めてか、「~だ」と断言調で用いたのは初めてだったような、文脈に不意に浮上した唐突感が感じられた。

正解か不正解かを、暗号で示唆してもらえないだろうか、友人たちよ。

あれは本当に「王子」の話だったのか、「王子」だとして誰が「王子」なのか、誰にとっての「王子」なのか。次々と問いは湧き起こって不安になるばかりだ。仮に潜在的には「王子」だったとしても、胸を撃たれた痕跡も露わに殉職してしまう「玉子」だったのではないだろうかとの不安も尽きない。不安はほとんど見えない高速のUFOのように執拗につきまとって、私を捕捉しようとする。

そして、このウゴウゴルーガ感がそこはかとなくあった深夜番組でデビュー?を果たしたタレントの名が、ここで語ったシャンパンの名の最初の二文字であるという偶発的事実に、いったい何を読み取るべきなのか。

 ひょっとすると、祝杯到達ルートのうち、「Moët」についてはもうクリアしたということなのか。そうだとしたら「et Chandon」についてどのような文章を書けばよいのか、思考はとめどもなく漂流してゆくばかりだ。

しかし、番組の背景で、ほとんど見えないほど高速のUFOが流れていたのはよく憶えている。United Future Organization、略してUFOのサードアルバム。2曲目の6:04くらいから流れるのがメインテーマで、殉職したのち墓場が映る場面で一瞬流れるのが1曲目のピアノ。こんな綺麗なピアノが奏でられていたのか。惜しい玉子を亡くした… いや、生きろ!

というわけで、BGMがかなり気になってしまう性格であることは、お分かりいただけたと思う。

「8:25くらいから」と指定して、亡くなった代議士のソビエト時代の映像を見てもらったが、9:33からなぜか背景で巨匠ゴダールの映画音楽が流れ始める。

曲の全編はこちらで聴ける。

 報道ステーションのようなニュース番組でも、時折知っている曲が流れることがあって、大好きな Massive Attack のこの曲も、イントロだけをループさせて使われていたのを聞いた覚えがある。

報道ステーションと言えば、昨晩の日銀の量的緩和の危険性を指摘した報道は視聴価値があった。基本的には東洋経済の以下の記事と同じラインで、前日銀審議委員の木内登英へのインタビューを中心に構成されていた。

日銀と国債の異常な挙動から預金封鎖に至る可能性を自分が指摘した直後に返信をくれるなんて、報道ステーションは律儀なところがあるようだ、というのは冗談。

下の東洋経済の記事は、マイルドな仕上がりだが、要点が出揃っているので、目を通してほしい。 

「2%物価目標は間違い」というわかりやすいタイトルが秀逸。報道ステーションでは「2%という数字に根拠がない」といった表現だった。最初のボタンから掛け違っていることさえ伝われば、どちらの表現でも良いと思う。そもそもが日本国民に服を着せようという話ではないのだ。日銀の量的緩和政策が、いつの日本を取り戻そうとしているのか、ご存知だろうか。高度経済成長期? ノン。バブル期? ノン。

上記の預金封鎖の記事を書くのに10冊くらい読んだが、まだ書き切れていないことが多い。現在のところ、最も支持したい小黒一正『預金封鎖に備えよ』には、こんな一節が含まれている。

筆者はもともと、異次元緩和の開始当初から「2%インフレの実現は容易でない」旨の主張をしてきました。理由は単純、過去のインフレ率の推移を見ると、バブル期(1986~1989年)でさえ年平均インフレ率は1%弱に過ぎなかったからです。しかも1989年については、消費税増税分によって1.4ポイントも押し上げられてようやくこの数字です。 

金融緩和が取り戻したいのは、あってはならない「明後日の方角の日本」で、弾けたら困窮へ転落必至の超バブル時代! しかも膨らんでいる間も、泡は日本ではなくアメリカを買い支えるために使われるのだ。(「預金封鎖」記事の貨幣乗数に関する部分を参照)。まさしく「一昨日来やがれ」という罵倒句がやけにお似合いな経済政策だ。 

預金封鎖に備えよ マイナス金利の先にある危機

預金封鎖に備えよ マイナス金利の先にある危機

 

  2016年9月にYCCを導入して以降、今年の実際の国債購入額は60兆円に減っているが、このまま続けると2018年半ばには資金が枯渇し、これ以上買えなくなる。年間45兆円であれば2020年に限度が来る。購入を続けて流動性が極端に下がれば、金利ボラティリティ(変動率)が過度に大きくなり、金融市場が大混乱に陥るリスクは高くなる。  

 上の東洋経済の記事に戻れば、この説明の部分を報道ステーションでは、こんな三段フローでフリップにまとめていた。

国債の流通量減少→少しの売買で価格が乱高下→株式市場や為替が混乱

  「大混乱」とか「混乱」という表現は、やや穏当すぎるのではないだろうか。「国債の大暴落からの株式の猛烈な日本売り」くらいが発展可能性の高いゾーンだと思う。小黒一正も言及するように、「金融緩和は時限爆弾」なのだ。爆発期限は来年が有力だ。上記で「金利ボラティリティ(変動率)が過度に大きくなり」とか「乱高下」とかいった部分は、専門用語で「テーパータントラム」という。

 長期金利が、制御不能に急上昇すると危機だが、制御しつつ少し上昇させるのは危険でない。だが、制御しつつ少しだけ上昇させるつもりが制御不能な急上昇に変質する懸念はある。日銀は7月と今回、市場の期待を裏切ってQE(日本国債の買い支え)の増額を見送っており、もう日銀がQEを拡大せず、むしろ縮小しそうな感じが広がっている。QEを縮小するなら国債に投資しても儲からなくなるので、8月来、国債が売られて長期金利が上昇し、制御不能になること(テーパータントラム=QE縮小時の突然の金利急騰)を投資家が懸念している。タントラム気味な日本国債金利上昇が、すでに発生している。そんな中で、日銀が長期金利をもう少し上げようとすると、それが制御不能なタントラム(相場の逆上)に拍車をかけかねない。QEは、軟着陸的にやめていくことが非常に難しい。

(テーパータントラム、略して)テパタンがすでに日本の国債市場で起こっていることが重要で、テパタンが嵩じると制御不能なまま、国債は突然大暴落し、株式市場も為替も追って大暴落という破局が突然発生することになる。

ん? いまなぜ唐突に悲観論を噴出させたのだ? と疑問に思った人は、ひょっとしたら行動経済学をあまり知らないかもしれない。

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

行動経済学 経済は「感情」で動いている (光文社新書)

 

 「サイバー・カスケード」が、ネット上の大衆の動きを指す用語として定着する以前から、「エコノミック・カスケード」現象は存在していた。  

実は、上に挙げた三者の中で、現在の自分の考えが最も近いのは小黒一正だ。しかし、彼が近々不可避的にやってくるだろう「国債金利の急上昇」や「日銀のバランスシートの肥大」を経済破局の原因とみている点には賛成できるものの、その引き金となるのは「敵ハーフコート」からの何らかの攻撃だろう、という印象を、自分はどうしても拭い去ることができない。

「引き金」が、女子高生同士の他愛のない会話のように可愛らしいとは限らない。

時価会計や関連するBIS規制(近年さらに国債のリスク評価が定められた)や連結会計や減損会計が、日本に対する「攻撃的」な基準改定だったことや、有名格付け機関の独立性が相当に疑わしく、日本国債の格付けの一斉引き下げが「兵器」となりうることや、収賄容疑による東京オリンピックの中止や何らかの人工性を伴った自然災害などが、万一もし外国から人為的に仕掛けれたら、日本経済崩壊の「エコノミック・カスケード」は、日本政府はもちろん誰にも止められないまま、預金封鎖を伴った「第nの敗戦」にまで至ってしまうのではないかという危惧が、どうしても自分を去らないのだ。

昨晩のニュース報道と一昨晩に仕上げた自分の記事に関連して、本当に伝えたかったことを補充しながら論じ直してみた。

最近、職場で段ボールで眠ったりとか、苦手なカフェインを大量摂取せざるをえない状況が続いて、睡眠不足でしんどい日々を送っていた。誰もが自分に嘘をつき、誰もが対象者を発狂や自殺に追い込むようなスキームで自分をもてあそぼうとし、誰も信じられないような気がしていた。心が荒んで、自分までテパタンを起こしかけていた。

眠る予定の時間の数時間前からは、カフェインの少ないミルクティーにすれば、少しはましになるのかなとも感じる。紅茶の葉を浸すお湯はぬるめが良いかもしれない、人肌の温度というか、涙の温度というか、お願い、って、また自分は誰と話をしているのだろう。こういうのを妄想狂というのだろう。脳裡をいろいろな声が駈けめぐっていて、自分でも怖くなってしまう。

大丈夫だ、きっと。ミルクティーに含まれているトリプトファンには矢印つきの有名な三段フローがあるから。

トリプトファンセロトニンメラトニン

きっともうすぐ眠れる。眠れば、誰であれ夢の中で見たい妄想の続きが見られるかもしれない。というその考えも妄想かもしれないにしても、ぐっすり眠れるだけで、とてもありがたい気持ちになれるはず。

翼ある祝福よ届け

日本一の栄冠を勝ち取った「駅伝ガールズ」たちの雨の日の室内訓練には、時折りテレビ取材が入ることがあった。「南海放送です~」という今の声真似でわかる人にはわかったはず。ひよこ感のある短髪の男性で、当時は「もぎたて」な地元密着愛を前面に押し出していたが、今や「いい加減」な街の市長となって「幸せ実感都市」つくりに奔走している。

南海放送と言えば、松山東高時代に友人たちの間で流行っていた深夜ラジオ番組があった。

もともと自分には少年っぽい悪戯好きなところがある。遠距離恋愛中だった友人が「遠距離なんかでは俺の愛を絶対に消せない」と息巻いて、馴れ初め、彼女の愛らしいところ、住所などを滔々と語ったので、聞き流しているふりをして、すべてその場で暗記した。そして、千葉県習志野市大久保(ここには書けないが、いまだに番地や号まで忘れられない)の彼女に無断で暑中見舞いを送ったら、思いがけず返事が来た。

私の「いい奴だから忘れないでいてやってください」に対して、好意的な返答だったと思う。何だか自分のことのように嬉しかった。教室のうしろに葉書を掲示したら、それがクラスの評判を呼んで、皆が友人の遠距離恋愛を応援する雰囲気になった。

そこで、当時クラスで流行していた深夜ラジオ番組に、遠距離恋愛に日々悩んでいる様子をクラスメートにだけわかる符牒を織り込んで投書したら、それもオンエアされて、DJが丁寧に悩み相談に乗ってくれた。翌朝の教室は大盛り上がり。

あのM子ちゃんとの遠距離恋愛がどうなったか、これを読んでいたら連絡をくれないだろうか、Sよ。

そのとき、本人が書いたのではない悩み相談とも知らず、真剣に回答してくれたラジオDJは、今や南海放送の社長をしているようだ。

彼がよくラジオで流していた曲を、今でも覚えている。 

 

Don't Dream It's Over

Don't Dream It's Over

 

(上の動画はカバー。今でもカバーが絶えない人気曲のようだ)。

There is freedom within, there is freedom without
Try to catch the deluge in a paper cup
There's a battle ahead, many battles are lost
But you'll never see the end of the road
While you're travelling with me

紙コップで大雨を集めようとしている
その中にも自由があり 外にも自由がある
もうすぐ戦いが起こる 負けつづけてきた戦いが
けれど この道の終わりは決して見えない
私と一緒に旅しているあいだは

 

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

ほら、ごらん
終わったと夢想してはだめ
さあ、気をひきしめて
あの世界がやってきた
彼らがやってくる
私たちの間に壁を築こうとして
私たちは彼らに勝てる

 

Now I'm towing my car, there's a hole in the roof
My possessions are causing me suspicion
but there's no proof
In the paper today tales of war and of waste
But you turn right over to the T.V. page

自分の車を牽引している 天井には穴があいている
所有物のせいで 疑われてしまう
証拠はないのに
今日の新聞は 戦争と廃棄物の話をしている
けれど きみはテレビ欄へ頁をめくる

 

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

ほら、ごらん
終わったと夢想してはだめ
さあ、気をひきしめて
あの世界がやってきた
彼らがやってくる
私たちの間に壁を築こうとして
私たちは彼らに勝てる

 

Now I'm walking again to the beat of a drum
And I'm counting the steps to the door of your heart
Only shadows ahead barely clearing the roof
Get to know the feeling of liberation and release

ドラムの拍子に合わせて また歩き出している
きみの心の扉まで あと何歩か数えている
歩く先にあるのは影ばかり かろうじて屋根が消えて
自由と解放を感じられるようになる

 

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

Don't let them win 

ほら、ごらん
終わったと夢想してはだめ
さあ、気をひきしめて
あの世界がやってきた
彼らがやってくる
私たちの間に壁を築こうとして
私たちは彼らに勝てる

彼らを勝たせてはいけない

 新しい米大統領が「国境に壁を作る」と宣言したことで、再びこの曲が注目を集めたらしい。しかし、おそらく歌われている「壁」は寓意的で、どんな場所にいる人や人の間にも、いつのまにか聳え立ち、私たちを隔ててしまう種類のものだろう。

日本一の駅伝走者、県庁所在都市市長、地方主要放送会社社長、遠距離恋愛での意思疎通。……どんな困難なハードルや壁にぶつかっても、そこへ一心に情熱を傾ければ、それらを越えることは決して不可能ではない。

高校生の頃デザインした「頑張T」に、自分は「情熱がすべて決める」と描き込んだ。

壁を打ち崩すことはできなくても、しなやかに立ち回ってそれを越えることは、必ずできる。想像力、構想力、実行力、突破力、抵抗力。それを何と呼んでもかまわないが、あなたがたには翼があるのだから。

そのような勇気ある翼の持ち主たちの群れを想像するとき、いつも思い浮かんでくるのは、イグアスの滝の裏に生息するオオムジアマツバメの群れ。

ひとたびその翼をはためかせると時速170kmとなり、水平飛行では最も速く飛ぶ鳥なのだという。果敢にも滝のカーテンへと飛び込んでいき、水しぶきのストリングを縫うようにかわしながら、滝の裏にいる仲間たちの元へ辿りつくさまが、勇猛で美しい。(12:48から)

(19:09からの神秘的な自然現象にも注目)

マリリン・モンローと翼」。そんなイメージの結びつきを追いかけながら、小説の構想を練っていた時期がある。

斬られた首=太陽、縫い閉じられた瞳、ゴッホの切り落とされた耳などを経て、いつのまにか自分の中にある身体毀損の強迫観念の連鎖は、フラミンゴの翼の尖へ辿りついていた。

想像上のロンドンでの顛末は別時に語ることにして、動物園のフラミンゴがやはりある種の「引き裂き」を強いられていることを、檻越しに観賞する人間は知っておいてもいいと思う。動物園で飼育管理されているフラミンゴは、遠くへ飛んでいけないように羽根の先を習慣的に鋏で切られつづけるのだそうだ。これを「断翼」と呼ぶらしい。

その10年以上前に書いた全文を読んでも、誰も気づかないことだろう。実は、あれはマリリン・モンローのことを考えながら書いた記事だ。

暗殺説の絶えないモンローが、実際に息を引き取ったときに受話器を握りしめていたという逸話には、それが偽装工作である可能性を知りつつも、涙を誘われてしまう。

自分には、翼の尖を切られつづけるフラミンゴの姿に、モンロー・ウォークの発祥となった映画を撮ったとき、モンローが片方のヒールの踵を5mm切り落としていた事実が重なって見えていた。モンローは羽搏いて逃げるべきときに、翼をどれほどばたつかせても飛ぶことができなかったのだ。あるいはコード付きの受話器に、あるいは受話器の先の誰かにしっかりと繋留されてしまっていて。

その映画の名が、イグアスではないにせよ、同じく世界的な滝の景勝地だったという偶然に、いったい何を感じ取ればよいのだろうか。

 いや、イメージの連鎖の蜘蛛の巣で、読む人を煙に巻くのはよそう。

原因不明の渋滞がもたらす時間の浪費と停滞感をどうやり過ごすかには十人十色の処し方があるのだろうが、動物園を逃げ出したフラミンゴが初めて見る自動車に驚いて車道で立ちすくんでいるのだと想像するのが、目下の自分には興趣が深い。渋滞の車列の先で、羽根を切られて飛べなくなったフラミンゴが何とか飛び立とうとして繰り返し翼をばたつかせている。そんなあどけない椿事と引き換えにするのだったら、こちらの方が動かなくなったガソリン仕掛けの鉄の檻にしばらく囚われたって苦にならないではないか。そう想像してみる。渋滞の原因がなかなかつかめず、車体を右に振って車列の先を見透かしても目ぼしい情報が依然として得られないとする。そんな時は、さらに少し想像を引き伸ばして、大きな問題はどこにもないんだと自分に言い聞かせてみたりもする。車列が停まっているということはフラミンゴは轢き殺されていないだろうし、飛べないにしたってガードレールを羽ばたき越えるのにそれほど時間はかからないはずだ。それに動物園の檻から逃れられさえすれば、飛べないフラミンゴの切り落とされた羽根はいずれまた再生して生え揃うにちがいないのだから。

「フラミンゴ渋滞」と名付けた小文を上記のように結んだが、率直に言って、今日までの14年間「檻」の中に幽閉されてきた自分の不遇を、かつてそこに描き込もうとしていたことは間違いない。飛べないよう翼の尖を切られつづけ、見世物にされつづけてきた自分を、救出しようとしてくださった方々、いたわろうとしてくださった人々、羽根が生え揃うよう手当てをしてくださった方々に、深甚な感謝を捧げたく思う。心よりありがとうございました。

そのような偶発的に遭遇した事件に接して、真善美愛に深くかかわる形で、無償の献身を捧げてくださったすべての人々に、神々からそれぞれへ向けた祝福が、鳩の群れのように羽搏き、空を舞って、それぞれの心へ届きますように。

 

 

 

しわくちゃの写真には
まぶしかった時間と
寄り添う僕等が痛い程
鮮やかに焼き付けられていて
はぐれたのはきっと
どちらのせいでもなくて
気がつけば君は僕の中に住みはじめた


勝ち負けだけじゃない何かを
教えてくれたレースがある
一緒に走った冷たい夏の雨
青いしぶきに重なる残像
水際に浮かべた感情
喜びや悲しみの傷さえ
包み込んだ約束の光


あきれる程真っ直ぐに
走り抜けた季節を
探してまだ僕は生きてる
間違いだらけのあの日々に
落とした涙と答えを
胸いっぱいにかき集めてもう一度
あの夏空あの風の向こう側へ
君という名の翼


夕凪が水面に並べた羊雲のように
斑の心じゃ君の声にも気付かない


秋風がまだ遠く夏の
終わりを待ちわびている頃
僕等の瞳に最後の陽が落ちる
追いかけてもすれ違う感情
振り払えはしない残像
選べない道を目の前に
立ち尽くした青春の影


諦めても背を向けても
誤魔化せない心の
舵は今も君の両手に
叶わぬ夢を浮かべても
沈まない勇気の煌めき
この一瞬に賭けてみたい最後まで
離さずに握り続けた願いが
導く場所を目指せ


知らず知らずに背中で聴いてた声が
今もまだ
僕を振り向かせる度切なくて


あきれる程真っ直ぐに
走り抜けた季節を
探してまだ僕は生きてる
間違いだらけのあの日々に
落とした涙と答えを
胸いっぱいにかき集めて
はぐれない様にと抱きしめた
もう一度あの夏空
あの風の向こう側へ
君という名の翼
僕等がいたあの空へ

広告を非表示にする

この国の明日へ、手紙をください

カニレターの届いていない郵便受けなんて、シナモンの入っていないアップルパイのようなものだ。 

確かイギリスの小説にそんな一節があったような気もするが、気のせいかもしれない。手紙でなくとも、ある程度意思疎通ができれば、相手の心が未知数に思えて不安になってしまう「x の悲劇」は避けられるし、形のないものが確かにここにあると信じて歩いていくのが人生だろう。

 悲劇といえば悲劇的世代としてよく引き合いに出されるのが、自分の属する団塊ジュニア世代。この国で最も子供の数が多く、最も受験競争が激しく、大学卒業直前にバブルがはじけて就職氷河期に突入した不幸きわまりない世代ともされる。しかし、自分はその世代の特性ともされる性格類型や消費行動類型の典型に合致しないし、人数だけはやたら多い自分らの世代をターゲットとした広告を見せつけられると、頼むから放っておいてくれないかな、と感じないでもない。

OK。正直に書こう。この直前の言い回しは、下記の小説からの借用で、世代論的受け止めのせいで、どこか過小評価されてしまったのでは?と感じさせる小説から、記憶だけで引用したつもり。 

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

ジェネレーションX―加速された文化のための物語たち (角川文庫)

 

世代はしばしば10年毎に区切られるが、このクープランドの処女作には、そういった世代論を楽々と超越した詩的な細部の横溢に魅力があった。手元に文庫はないので記憶だけで引用するが、若者たちが集まって「もし地球上の自分の記憶の中で、1つだけあの世へ持っていけるとしたら、どんな記憶を持っていく?」という話題について語り合う場面も印象的で詩的だった。ある登場人物は「雪」だと言う。あなたなら、どんな記憶を持っていくだろうか。世代論なんか軽く越えた深みのある哲学的問題提起だと、今でも思う。

もう一つ憶えている挿話があって、人は誰もが「内なる手紙」を持って生まれてくるが、人生が終わるまでにその「内なる手紙」を読むことはほぼ不可能で、それでもその手紙に返信を書かなくてはならないという話。手元に本がないので、私の潤色が入っているかもしれないが、日本通のクープランドは、或る日本人社長との実体験に基づいていると思われる挿話を披露していたと思う。

職階が低いのに、外国人であるからという理由で、(クープランドに近い存在の)主人公が社長に社長室へ誘われた。「大切なものを見せたい」ということらしい。社長室に入ると、社長は金庫の中から、ある煽情的な写真を取り出した。マリリン・モンローがスカートの下に下着をつけないまま、例の地下鉄から地上の通風孔へ吹き上げてくる突風にスカートを煽らせたところを、ローアングルで撮った写真。写真が不鮮明なので、機微ある女性の一部は「スペードの黒のように真っ黒だった」と作者は書いていたと思う。そんなパパラッチ写真が「内なる手紙」への返信だなんて絶対に間違っていると激怒して、主人公は社長室から踵を返す。外国人がなぜ怒ったのかがわからなくて、不安のあまりその社長が、社長室を出た主人公をひょこひょこと追いかけてくるという描写がやけにリアルだったので、たぶんクープランドが体験した実話なのだろう。

 と、ここで種明かしすると、「悲劇といえば悲劇的世代として…」からこの段落の直前までは、3月11日に書いた封印中の前ブログの記事。手元に文庫本を用意できたので、自分の記憶力の「答え合わせ」をしてみたい。

 手を入れて取り出したものは、距離のあるぼくから見ても、何なのかわかった。写真だ――一九五〇年代のモノクロ写真で、犯行現場を撮影したものみたいなもの。ミスタ・タカミチがその謎の写真に眼をやって、溜め息をつく。それから、ひっくりかえすと、「これがわたしの、いちばん貴重な品だ」という意味に息を吐きながら、ぼくに手渡してくれ、ぼくは、正直に言うけど、それが何なのかにショックを受けた。

 マリリン・モンローの写真だった。チェッカー・キャブに乗りこむところで、ドレスを持ち上げ、下着なしで、カメラマンに投げキスをしている。そのカメラマンが、恐らくは、記者時代のミスタ・タカミチなのだろう。公然とセクシャルな、真正面からの写真で(いやらしい想像にふけらなくていいよ――教えてやる、スペードのエースみたいに真っ黒)、ひどく嘲るようだった。それを見ながら、ぼくは、無表情にこちらの反応を待っているミスタ・タカミチに『おや、おや』とか何とか、くだらないことを言ったけれど、実は心の中では、ひどく無念だった。こんな写真が――本質的には単なる下品なパパラッツィ写真だし、それを言うなら掲載可能ですらない――いちばん貴重な持ち物だなんて。

 そこで、ぼくには抑えきれない反応が起きてしまった。耳に血が昇り、心臓がどきどきする。汗が吹き出し、詩人リルケの言葉が浮かんできた――我々はみんな、一通の手紙を内にもって生まれ、自分自身に忠実である場合だけ、死ぬ前にそれを読ませてもらえる、という考え方だ。耳で燃えるような血がこう言うんだ。ミスタ・タカミチは、どこかで金庫の中のモンロー写真を自分の内なる手紙と間違えたし、ぼく自身も、何か似たような間違いを冒す危険にさらされているって。 

 このあと、怒りに追い立てられるように「ぼく」が社長室を辞去すると、どう対処していいかわからない社長が「ぼく」についてくるときの「ひょこひょこ」というオノマトペまで同じだった。20年前に読んでいた小説をここまで覚えているのなら、記憶力はまだ大丈夫だ。仕事をしなければ。ざっと再読したところ、作者のアート好きで性的マイノリティで文化社会学好きで宗教的感性の持ち主であるところが、よく出ている小説だと感じた。

 「内なる手紙」のような宗教的とも存在論的とも言えるモチーフは、まとめてエピファニー的だとまとめるとわかりやすいと思う。

20代の頃、小説を書くならこの本を読むべきだと勧められた。 自分も同じ立場の人に教科書として薦めたい名著だ。小説の様々な属性についての専門的な短いコラムが、新イギリスの新聞に連載されていたことに驚くが、それこそ、あとがきで訳者が言及しているイギリスの「ハイカルチャー愛」のなせる業なのかもしれない。

小説の技巧

小説の技巧

 

 しかし、エピファニーの項目に限っては不満が残る。というより、その定義が少しずれていはしないか。

カトリック背教者ジェイムズ・ジョイスにとって、作家という天職は司祭職の俗世版のようなものだったから、エピファニーという言葉にしてもジョイスは、ありふれた出来事や思いが、作家が技巧を駆使することによって時を越えた美を帯びるに至る過程を言い表すのに用いた。

 20世紀最大の小説は、ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』とプルースト失われた時を求めて』だ。イギリス人のジョイス愛に理解がないわけではないが、上記のような「異化」そのものの説明に「エピファニー」をあてるのは、ジョイスが頻繁に言及した幅広い「エピファニー」のうち、貧しい部分によってそれを代表させたとの批判を免れることは難しい。エピファニーに当てられるべき「顕現」という訳語を確認した上で、この文脈ではドイツのベンヤミンを招来するのが正しいのではないだろうか。 

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

自我の源泉 ?近代的アイデンティティの形成?

 

 上記の著作をまとめたブログに、参照すべき文脈が見つかる。そこでは、ジョイス的な「存在のエピファニー」の発展形として、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」やプルースト的な「間時間的エピファニー」が措定されている。

存在のエピファニーの特性は以下の3つにまとめることができる。(1) ある現実についてそれが何であるかを示し、(2) その何かとはあるものの表現であり、(3) そのあるものとは紛れもなくよい道徳的源泉である(p. 535)。構成的エピファニーは(2)を否定した(…)

エピファニーの発生源はがジョイスのいう「物自体」ではないなら、何になるのだろう。

・間空間的ないし構成的エピファニーと20世紀の芸術的実践の間に見られる並行関係の例としてテオドール・アドルノを挙げることができる。アドルノは近代芸術を、統一性という抑圧的全体性に抗うものとして捉えた。「和解が私たちから逃れるのは、普遍的な概念が常に、個別的なものの現実の一部を見せないようにしているからである」(p.534)。しかしモダニストたちは、私たちが事物を把握すること―すなわち「名づけること」―に対して、かつてのロマン主義者が夢想したような楽観的な態度を取ることはもはやできない。だが、事物を布置の中にはめ込むことはできる。これが間空間的エピファニーの一形態となる。「その諸要素はそれらが指示するものを表現しはしない。それら諸要素はある空間を構成し、さもなければ無限に隔たっているであろうものを近くへともち来たらすのである」(p.534)。

(強調は当ブログへの引用者による)

平たく言えば、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」とは、本来なら関連がありえない物同士(地上から見る星は、遠近法の働かない視覚上どれほど近接していても、その星と星との間には、実際は気の遠くなるような距離がある)のあいだに、つかのまの「星座線」を引くことによって、「世界はそうなっているのかもしれない」という脱日常的な「顕現」の感覚を得ることなのである。

事実、ジョイス自身も『フィネガンズ・ウェイク』でそのような「間空間的エピファニー」の最高度の現出に成功しており、そもそも、作家が作品に対して神の位置をもって日常世界への alternative を提出している以上、あるいは、その創造過程において自己統御可能な自意識以上の何かにしばしば浸潤される以上、ベンヤミン的な「間空間的」、プルースト的な「間時間的な」エピファニーにコミットせざるをえないことは自明なのだが、ジョイスを貧しくしか読まないと、教科書のような名著でも、しくじってしまうことはあるのだろう。

 そのしくじりを「教科書」として再設定して、ページをめくりつつ、広い対象に新たな正典であるかのように再説することもできなくはないが、どこまでがロッジ個人のしくじりだったのかは、大いに時代や状況に依存していて不分明だ。アドラー的冷静さで誰が負うべき罪であるかを正確に線引きしていけば、私見では、当代随一の小説技法概説書を出版できる「光輝さ」(ジョイス)を備えた人物が、そのしくじりを自分の責任として引き受けるべき部分はほとんどないし、ましてや線の向こう側にあるものすべてを自分の責任であるかのように俯きつつ内面化する必要なんて、さらさらないと考える。It's not your fault.

真の意味で私たちが失敗したとしたら、それはマリリン・モンローの失い方であったかもしれない。 

同じく、ダイアナ妃も悲しい形で失わなければならなかった。

いずれのケースも、諜報組織の工作員が、死に瀕したことで最低限の良心を取り戻し、倫理的に許されない反社会的行為の告白へ至った暗殺事件だった。

死に瀕したと言えば、同じような「裏真実」を告白した書物を世に問うて、ヨーロッパに一大センセーションを巻き起こしたジャーナリストもいた。心臓病の持病を持ち、子供を持っていないことが、生命を賭けた告発へと彼を後押ししたのだという。

“ドイツ政治家はアメリカ傀儡”ドイツ人ジャーナリストはアメリカ支持記事を書くよう強いられている ウド・ウルフコッテ + 12月5日に東京で大地震を起こす計画? + ウクライナ原発[事故」 | 続 さてはてメモ帳 Imagine and Think!

下記の記事でこう書いた。

  • 大国と従属関係にあった国が、どうやって不平等条約を解消したのか。
  • アメリカの軍事支配を受けていた国が、どうやってそこから脱却したのか。
  • 自国の独裁政権を倒した人たちは、そのときどのような戦略を立てていたのか。

上記の3つの箇条書きは、確かに正しい道筋だと思うが、何か知恵を出してくれ、と言われた気がして、対米自立型保守の立場から個人的に二つのアイディアを考えてみた。今日のところで思いついたのは、二つ。①工作員遮断集団による出口調査の実施と、②フリージャーナリストによる Dying Messageの取材だ。

エラリー・クイーンの『Xの悲劇』は、殺害された被害者の Dying Message を解読して、真犯人逮捕へ至る推理小説だった。

上記の三例のように、死期が近づいてきたことで良心を取り戻し、存命でありながらも世界を動かす Dying Message を発することのできる人々がいる。

そのわずかな、しかし、きわめて貴重な証言を発掘できる可能性に賭けて、草の根のフリージャーナリストたちが駆け回るような社会は、どれほど絶望の色に染め上げられていようと、まだ希望の残っている社会だと言えるかもしれない。

拝啓 中曽根康弘 様

 

日航123便墜落事故の真相を「墓場へもって」いかず、「戦後政治の生き証人」として、この国の明日を生きる国民へ宛てて、真実の手紙をお届けいただけないでしょうか?

 

 RAPT | JAL123便墜落事故の真実を「墓場まで持っていく」と言った中曽根康弘こそ、JAL123便撃墜の首謀者ではないのか。

元気でいますか。
大事な人はできましたか。
いつか夢は叶いますか。
この道の先で

 

覚えていますか
揺れる麦の穂 あの夕映
地平線 続く空を探し続けていた

 

明日を描こうともがきながら
今夢の中へ
形ないものの輝きを
そっとそっと抱きしめて
進むの

 

笑っていますか
あの日のように無邪気な目で
寒い夜も雨の朝もきっとあったでしょう

 

ふるさとの街は帰る場所ならここにあると
いつだって変わらずに あなたを待っている

 

明日を描くことを止めないで
今夢の中へ
大切な人のぬくもりを
ずっとずっと忘れずに
進むの

 

人は迷いながら揺れながら
歩いてゆく
二度とない時の輝きを
見つめていたい

 

明日を描こうともがきながら
今夢の中で
形ないものの輝きを
そっとそっと抱きしめて
進むの 

 

 

隣組からの国債的エア・メール

世界一短い曲のことを考えていた。歌詞はこの一行、演奏時間は1.36秒。

You suffer, but why?

今晩の自分がやけに共感してしまう歌詞だ。デスメタル系のアーティストの曲らしい。ここに書いた記事の名前と関連を感じてしまう。

1.316秒は極端だとしても、テレビ番組で数秒のひとことコメントを求められている現場を目撃することはよくある。数年間のことだったろうか。以下のようなわずか数秒のやりとりにいたく感動してしまった。

「TPP推進派にひとことお願いします」

「(典型的なデス声で)地獄へ落ちろ!

 この自分の記憶史上最高の三秒コメントの声の主は、TPP反対を語らせれば日本一の中野剛志。三橋貴明との対談も、アクセルべた踏みの威勢の良さで痛快だった。 

売国奴に告ぐ! いま日本に迫る危機の正体

売国奴に告ぐ! いま日本に迫る危機の正体

 

 しかし、痛快と笑っていられるほど楽天的でいられないのは、自分がリアリストを自称する割には悲観論に染まっているせいなのか、リアル世界が悲観論しか妥当しないほど悲惨なせいのか、その辺りはよくわからない。

 上記の記事の中で、自分が経済系エントリで主張してきた内容を、便宜的に10個に整理した。そのうちのかなりの部分で、幸運にも岩本沙弓の主張と重なったのだが、一番大きく異なるのが、この国にとって一番喫緊の課題であるこの項目。

⑩日銀の金融緩和には出口戦略がないので、預金封鎖ハイパーインフレなどのハードランディングがありそう

日本経済崩壊論と日本経済安泰論の対立において、自分は前者寄りに立っているが、三橋貴明岩本沙弓らの後者に立つ論客もかなり強力で引き付けられてしまう。

とはいえ I don't put on the dog on this matter.  この論争で負けても loser 慣れしている自分は失うものはないし、日本の経済が安泰なら、それは自分の利益にもかなっているので万々歳だ。問題を自分で自分のために整理するつもりで、今夜は朝まで考えてみたい。 

真説 日本経済

真説 日本経済

 

 三橋貴明によれば、日本経済崩壊論を語りたがるのは、増税したい財務官僚やその御用学者か、破綻を煽って金融商品を売りつけたい外資系証券マンか、日本の破滅を心の底から願っている反日左翼のいずれからしい。(もちろん自分はそのいずれでもない)。

三橋貴明の主張は明快で歯切れがよく、人気の高い論客なのもよくわかる。「日本経済崩壊論者が語るような国家破綻はありえない」と説く理由も明快だ。

①(日本は世界一の債権国だから)対外債務のデフォルトはありえない

②(供給能力壊滅時にしか起こらないので)ハイパーインフレは起こらない

③(世界恐慌時のアメリカで4年でGDPが半分になったようなデフレ拡大はあり得ないので)恐慌は起こらない

 管見の限りでは、三橋貴明の日本経済論の新味は「デフレ・ギャップ」の正確な定義を衆目に周知したことにあるだろう。デフレギャップとは「潜在GDP>名目GDP」の差のこと。逆の「潜在GDP<名目GDP」がインフレギャップ。

実は、自分がこれまで推してきた政府紙幣の推進論者の丹羽春喜に最も近いのが、三橋貴明の思想的立場なのだ。 

謀略の思想「反ケインズ」主義―誰が日本経済をダメにしたのか

謀略の思想「反ケインズ」主義―誰が日本経済をダメにしたのか

 

 省益拡大を狙って増税路線をひた走る財務系官僚たちが、90年代に入ってデフレ・ギャップ(当時30~40%)の公表を取りやめ、代わりに名目GDP偏差値のような「無意味な」指標(当時2%)に摩り替えて発表し始めたこと(これにはシカゴ学派の「ヌーベル中央銀行賞」受賞者ルーカスの影響があるらしい)に、丹羽春喜は激怒している。本当にデフレギャップが2%なら、日本は楽園のような好景気のはずだが、経済企画庁はなぜそんなありもしないお花畑の「官製欺瞞情報」を発表するのか。「精神障害者」という罵倒句まで使って、そのような口吻で怒り狂っているのだ。

デフレ・ギャップ隠しが誤った構造改革路線を招来した」と丹羽春喜が批判する同じ場所で、三橋貴明はさらにわかりやすく「デフレギャップがたっぷりあるのに、何でインフレ対策の構造改革をやっているの?」と切り捨てる。

三橋貴明は前掲書の最終部分で「デフレギャップに対して、真逆のインフレ対策(緊縮財政)を手当てしたせいで、需要が下がり、次いで供給能力が下がり、といったデフレスパイラルのせいで、日本の供給能力が半減したときに、自然災害が起こったらオシマイだ」という最悪のシナリオを披露している。実は丹羽春喜の著作にも近い記述がある。

この二人の「デフレ・ギャップ活用型日本経済安泰論」に対して、「預金封鎖必至の日本経済崩壊論」の論客が小黒一正だ。 

預金封鎖に備えよ マイナス金利の先にある危機

預金封鎖に備えよ マイナス金利の先にある危機

 

出版年月日が新しく、日銀のマイナス金利政策への洞察が含まれているのがありがたい。 

小黒一正が日本経済の崩壊の根拠とするのは、「無料昼食(フリー・ランチ)はない」という経済学の常識や、「国債自国中銀引き受けによる無税国家はありえない」とする元FRB議長のバーナンキの発言だったりするので、確固たる経済理論的な裏打ちがあるわけではない。

中央銀行の独立性を奪おうとする法整備を行って、通貨や国債の暴落を招いた「ハンガリーの悲劇」の実例も紹介されているが、それは1%グローバリストの報復にちがいないだろうから、純粋な「範例」として参考にすることはできない。

実は、小黒一正自身が「中央銀行がどの程度自国国債を買うと、どの程度の影響が出るかは予測できない」旨を明かしている。

デフレ・ギャップの範囲内なら国債増発も財政ファイナンスもOKの三橋貴明、莫大な公共投資で国を蘇生させたいから政府紙幣を財源としたい丹羽春喜、経済学の常識的な財政規律論から国家の財政破綻必至を説く小黒一正。

実は、三者の立場の優劣を決するための確定情報はない。というより、世界的な視野のもとにある不確定情報が多すぎるというのが現状だろう。経済状況の推移は、国内限定的視点や経済理論を離れた、さらに「グローバルな現場」で起こっていると考えるべきなのではないだろうか。

たとえば、識者の多くが「買いオペ」は事実上の「財政ファイナンス」だとして批判するのに呼応して、小黒一正がそれを事実上の「ヘリコプター・マネー」(クルーグマン)に近いと述べるとき、もっとグローバルに経済状況を見たいと自分は呟いてしまう。サッカーのテレビ観戦でいうと、自国代表チームのハーフ・コートしか映っていないようなもどかしさを感じてしまうのだ。

同じ預金封鎖関連本を執筆した石角完爾は、貨幣乗数アベノミクスによって7~8からあべこべに3に減少したことに注目して、アベノミクスが国内の市中に潤沢に資金供給するどころか、むしろ民間にマネーが出回らなくなったと述べている。「サギノミクス」とは、言い得て妙だというわけだ。 

預金封鎖

預金封鎖

 

 では量的緩和の大量のマネーはどこへ行ったのか? サッカーの敵国コートへ、つまり、さらに「グローバルな現場」へ、右から左に流れていったのである。

国際ジャーナリストの田中宇は、「リーマン後の2010年以来、為替相場円高ドル安になるほど、10年もの米国債の相場が上がる(金利が下がる)傾向で、両者の間に強い相関性が見られる」ことを根拠に、日銀が「QEで増刷した資金を使って、米国債の相場を引き上げ、金地金の国際相場を引き下げている」と分析している。

 (リンク先から有料記事購読の登録をお勧めしたい  http://tanakanews.com/intro.htm

実は、上に挙げた三者の中で、現在の自分の考えが最も近いのは小黒一正だ。しかし、彼が近々不可避的にやってくるだろう「国債金利の急上昇」や「日銀のバランスシートの肥大」を経済破局の原因とみている点には賛成できるものの、その引き金となるのは「敵ハーフコート」からの何らかの攻撃だろう、という印象を、自分はどうしても拭い去ることができない。

会計学のエキスパートである神奈川大学の田中弘教授は、「英米の常識だから」と日本が導入させられた時価会計とそれに関連するBIS規制、連結会計、減損会計などは、どれを取っても日本企業の決算数値が悪くなる基準であると指摘しています。  

最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章

最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章

 

 上記の経済本の出版後、予想通り、BIS規制によりそれまでゼロリスクとされてきた自国国債をリスク資産とするよう評価法の風向きが変えられた。もちろんそれは日本の銀行が不利となる方向だった。

そのような国際的な会計基準の「攻撃的」改定だけでなく、本来独立しているはずの格付け機関が1%グローバリストたちの思惑に同調して、日本国国債の格付大幅に引き下げたら、大惨事が巻き起こりかねない。格付け機関に政治的偏向が色濃くあるのは、よく知られた話だ。

 時事的に言えば、収賄容疑による東京オリンピックの中止や、何らかの人工性を伴った自然災害も、日本の経済破局の引き金になる可能性がある。

待って、って? また、ありもしない陰謀論的妄想に子供みたいに夢中になっているって? OK。では、敵ハーフ・コートからの攻撃に怯えるのはやめて、自国ハーフ・コートに目を転じてみようか。注目プレーヤーは国債と日銀だ。

日銀が買い占めるせいで、民間のプレーヤーによる国債の取引のほとんどが停止していて、田中宇によれば、量的緩和中毒で「廃人」になったも同然なのだそうだ。「日本では、民間金融市場がほとんど存在していない」というのが実情らしい。

では、日銀は?

Congratulations! アメリカやEUの中央銀行を抜いて、世界一不健全で危険な中央銀行の座を勝ち取ってしまった。向かうところ敵なし、というか、敵しかなしというところか。破綻後に国民を待ちかまえているだろう恐るべき苦難の道のりよ。

「グローバルな現場」の実態が、少しは伝わっただろうか。

預金封鎖、通貨切り替え、重税の財産税。

これらは、敗戦直後に日本で実際に行われた財政インフレによる国家政策だった。事実、国民は国に身ぐるみ剥がれたのだ。

それでも「ギリシアと違って日本は安全だ」と言い募る人々に、「確かにギリシアとは違うが、全然安全ではない」といくら言って聞かせても、聞く耳を持たないことだろう。「敗戦直前の日本からエア・メールが届いていましたよ」とだけ伝えて、以下の文言を心を落ち着けて読んでもらいたいと思う。

第6章 国債の将来

(1)国債がこんなに激増して、財政が破綻する心配はないか。 国債が沢山殖えても全部国民が消化する限り、すこしも心配は無いのです。 国債は国家の借金、つまり国民全体の借金ですが、同時に国民が共の貸手でありますから、国が利子を支払ってもその金が国の外に出て行く訳でなく国内に広く国民の懐に入つて行くのです。

 一時「国債が激増すると国が潰れる」といふ風に言はれたこともありましたが、当時は我国の産業が十分の発達を遂げてゐなかつた為、多額に国債を発行するやうなときは、必ず大量の外国製品の輸入を伴ひ、国際収支の悪化や為替相場、通貨への悪影響の為我国経済の根底がぐらつく心配があつたのです。

 然し現在は全く事情が違ひ、我国の産業が著しく発達して居るば管理や各種の統制を行って居り叉必要なお金も国内で調達することが出来るのでして、 従って相当多額の国債を発行しても、経済の基礎がゆらぐやうな心配は全然無いのであります。

大政翼賛会隣組読本 戦費と国債』1941 旧漢字は新漢字に変換)

預金封鎖、通貨切り替え、重税の財産税。

まずは心の準備から、次に大恐慌への備え。これを読んだ人には、幸運にも、まだわずかながら時間が残されている。

 

 

なぜこんな記事を書き出したのだったろう。そうだった。「世界で一番短い曲」で思い出した。「I'm not superstitious」と冒頭で歌い出す曲を聴いていたつもりが、この半年間さまざまな神秘体験に遭遇して、すっかり迷信深くなっている自分に気付いたのだった。

たぶん気のせい。そういうことをしないタイプなのに、数年前に携帯電話の或る写真を壁紙にしていたら、声が聞こえたことがあった。「あ、喋った!」と思わず口に出してしまった。実はこの手のことはこれまで自分によく起こってきた。こういう伏線をこれまで何度も自分の周囲へ張ってきたんだ、神様は。

そのときの三文字が「世界で一番短い…

…こういう場所では、これ以上はやめておこうか。本当に起きたことではあるけれど。

いつのまにか、聴いていた曲は同じアーティストの違う曲に変わっていたみたいだ。ボサノバ・バージョンがいい。歌詞は未確認だが、吉事であれ凶事であれ、最終的な何かの到来をカウントダウンしている曲なのだろう。

とびっきり甘い梨味のアンソニー

誰もができることなのに、自分だけが虚構と現実の区別がつかないのは、なぜなのだろうか。

他のせいにするの良くないかもしれないけれど、virtually という英単語にも責任の一端がありはしないか。①仮想的に ②事実上 という相反する二つの意味が込められていて、その境界線がよくわからないのだ。

というわけで、今日も仮想なのか現実なのかよくわからない話。このブログには前身ブログがあって、現在は公開停止にしてある。そこで「梨のような手に両頬を包まれて」というタイトルで、小文を書いた。それをリメイクすることにしたい。

ずっと悪夢に魘されてきたような気がしている。悪夢から逃れようとして、首を左右に振って、それでも逃れられずに過呼吸になって苦しんでいるとき、両頬に同時に誰かの手が触れて、自分の顔をしっかり固定して、真っ直ぐ天上へ向いた垂直方向へ向けてくれるだろう。

その手に梨のような香しさと瑞々しさと感じられて、誰の手だろうと思いながら目を覚ますと、「起きて」と、vous ではなく te の距離から彼女が言うだろう。

「起きてってば」

「?」

状況がまだ分かっていない私へ、彼女はこうつづけるだろう。

「起してごめんね。悪い夢を見ていたみたいだったから、永いあいだ」

「ありがとう、起してくれて。…確かに、ずいぶん永かった気がする。14年くらい経ったかもしれない」

「大丈夫よ。眠っていただけなんだから」

そう言って、彼女は笑うだろう。

そのとき初めて、私は彼女の顔をまじまじと見るだろう。間違いない。間違いなく十年以上何度も何度も見てきた顔なのに、彼女が自分の知り合いだという気がまったくしないのが、不思議でたまらない。

彼女はあきれるほど明るい調子で、微笑みながらこう言うだろう。

「時間なんて、選べば、選びきったら…」

時間は測定可能性を越えたもの。そんなベルグソン的な「純粋持続」を言おうとしているのだろうか、それとも、同じベルグソンの「生の跳躍(エラン・ヴィタール)」を言おうとしているのだろうか。

「知っているのに知らない彼女」は、状況の核心に触れようとするかのように、ゆっくりとこう言い聞かせようとするだろう。

「何が仮想か…」

私は、痛ましい思いがしてはっと我に返る。そうか。これは仮想現実だったのか。言われてみれば「知っているのに知らない彼女」なんて矛盾した存在が、この世界にあるはずないもの。

彼女は答えを待っている。もう一度こう繰り返すだろう。

「何か貸そうか?」

同じ言葉が複数の意味で同時に響いてきて、どう対処したらよいかわからなくなる。わからないのだから、もう仮想なら仮想でかまわない。

ベッドに横たわっている私は「手を貸してほしい」と彼女に伝えるだろう。

彼女の手が私の手へ差し伸べられて、二つの手が繋がれる。化粧水を触り慣れたしっとりとした手だと感じて、身を起こした瞬間、私はいつもの一人のベッドの上に身体を起こしているだろう。

けれど、右手には「知っているのに知らない彼女」の手の感触がはっきりと残っていて、その手に梨のような香しさと瑞々しさがあったことも確かなので、あの梨はナシに通じた nothing を意味していたのか、pair に通じた pear を意味していたのか、またしても仮想と現実の間で、半睡半醒のまま、彼女の残像を追い求めつづけることになるだろう。 

 さて、何でこんな短編小説めいた一節を書いているかと言えば、その責任の一端は virtually という英単語の多義性(①仮想的に②事実上)にあると冒頭で話した。大変困ったことに、virtually には「③ほとんど」という意味もあるので、話は「ほとんど不可能に見えることにいかに挑戦するか」という方向へ発展していかざるを得ない。 

上の記事で、「ケムトレイル疑惑」について、国交省に直接電話で説明を求めている女性を紹介した。1%グローバリストたちによる気象操作の可能性については、依然としてどうも信じがたいと感じている人も多そうだ。

ひょっとして2009年の Climate Gate 事件をまだ知らない人がいるのだろうか。

つい先日、リスペクトしているツイッタラーのタイムラインを経由して、こんな決定的な情報の流出が確認できた。「気象改変の段取り書」は初めて見た!

そして同じツイッタラー経由で、本日とうとう、こんな決定的な情報まで出てきて、気象関係の業界は大騒ぎになっているようだ。

世界の最大の対立図式が今や「グローバル経済 対 国民経済」(三橋貴明)に移行していることはご存知だろう。ともに後者に依拠するロシアのプーチン大統領とアメリカのトランプ大統領は、或る種の国民的英雄であり、互いが互いを理解しているので、あのような助け舟めいた情報リークが出現するのだ。

米政府による米国民への気象兵器攻撃と、その実態を「敵国」ロシアがリークしたという大事件を、日本の主流メディアは1秒でも放送したのだろうか。

 情報源はこちら。プーチンの台詞の英訳は簡単なので、英語の苦手な人でも読めそうだ。

 "Trump is a very smart man, I'm sure he has figured it out, but it, most likely, has nothing to do with him.

「トランプはとても賢明な男だ。彼はそれを理解しているとは思う。しかしそれはほぼ確実に彼とは関係ない。

 

"Russian satellites captured those hurricanes being made with machines.

「ロシアの衛星は、これらのハリケーンが機械で作り出されたものであることを捉えた。

 

"They didn't occur naturally, they are another rich man's game.

「あのハリケーンは自然に起こったものではない。あれはまたしても金持ちのゲームだ。

 

"Convincing the public climate change is real does two things: It undermines their leader and keeps the money flowing.

「気候変動が本物だと大衆に信じ込ませることは、2つの働きをする。つまり、それは彼らのリーダーの評判を落とし、カネが流れつづけるよう仕向けられる。 

あれ? プーチン大統領は世界に君臨する一流指導者なのに、荒唐無稽な「陰謀論」に子供みたいに夢中になってしまっているのだろうか。否、否、否。彼は旧ソ連の諜報組織KGBの出身。世界のあらゆる現実的謀略に精通しているだけである。無知なのは私たちの方だ。

さて、ケムトレイルを追求して国交省に電話する女性の他にも、堤未果レッシグの架空の4歳の子供との想像的会話を活動意欲の源泉として紹介したり、岩本沙弓が自身の障害のある娘の行く末のために書くと言明したりしているのを見ると、レヴィナス流の「未来の他者」ならぬ「未来の弱者」である次世代の子供への愛あるまなざしは、女性の方が強いように感じられる。

とりわけそのような女性たち向けに、「未来の弱者」こと乳幼児が健康に生きる環境を守る運動が、海外では盛んにおこなわれていることを紹介したい。

こちらはイギリスで流されている電磁波の危険性を啓発する動画。

フランスでは2015年に、公衆への電磁波放射を管理する画期的な法律が制定されたという。羨ましくてしょうがない。

  • 保育所等で、無線LAN(Wi-Fi)等の禁止
  • 小学校で無線LAN等の機器は授業で使う時以外は停止させること
  • 携帯電話のどのような広告にも(イヤフォンのような)頭の被曝を選らす推薦を含めること
  • Wi-Fiを提供しているすべての公共の場所は、入口にそのことを明示すること
  • すべての無線機器は、無線機能をオフにする方法を使用説明書に明示すること

放射能と同じで、細胞分裂が活発な乳幼児ほど、電磁波の悪影響は大きくなる。無線・有線装置産業の双方から献金がないことはもちろん、いかなる電磁波対策製品も販売しない中立性のもとで活動する非営利団体が素晴らしい。妊婦の電磁波被爆を減らすよう声明を挙げたり、啓発に努めたりするために、140人以上の医者や専門家が集まっているので、信頼性は確かだ。

その共同声明の一項目で、「電磁波による完全な害の証明以前に、実体のあるリスクが証明されれば、公衆衛生を守るために対策すべき」という予防原則が掲げられているのは当然だろう。情報を拡散することで、予防原則に立つかどうかの選択肢を、少なくともママたちが持てるような社会でなければならない。

We know that the scientific process demands a thorough and exhaustive examination of the possible impact of wireless radiation on health; however, we believe substantial evidence of risk, rather than absolute proof of harm, must be the trigger for action to protect public health. 

  しかし、最前線の研究者たちの研究が示唆しているのは、さらに末恐ろしい危険性だ。専門用語が多くて難解だが、英語が得意な人は、下記の論文の梗概に目を通してはどうだろうか。

電磁波被爆した母ラットだけでなく、その胎内にいた娘ラットまでが、母になったときに生殖能力が極端に低い「遺伝的結果」を得ることまでが判明している。少し前まで、You Tube には「電磁波被爆による遺伝子の傷は女系遺伝する」と話す専門家の動画があったように記憶する。上記論文がその根拠の一つとなっていることは間違いない。

もうすぐ「敗戦」記念日のある夏休みがやってくる。

極東の一角には、世界一の農薬大国、世界一の添加物大国、世界一の電磁波大国、世界一の遺伝子組み換え食品大国が辛うじて残っている。これだけの人々を殺され、これだけの人々を病気にされたあと、生き残っている日本人たちで、野坂昭如の第一の代表作と第二の代表作の間にある凄絶な敗北の歴史をじっくり考え直す自由研究に、取り組むのはどうだろうか。 

少し前の記事で、日本が「世界一の農薬大国、世界一の添加物大国、世界一の電磁波大国、世界一の遺伝子組み換え食品大国」であると述べた。ヨーロッパよりも数百倍も電磁波の規制基準が緩やかすぎる日本では、当然のこと、日本人の女性がなるべく不妊になりやすくなるよう悪魔のお膳立てがなされていると考えなければならない。

その悪魔の嘲笑を、私たちは20011年3月11日以降、毎日のように目撃させられた。

 東日本大震災後、テレビで執拗に反復されたこの「検診のすすめ」の背後では、日本の未成年の少女たちへの「予防ワクチン接種のすすめ」が国策として進められていた。2010年から2013年まで、子宮頸がんワクチンの予防接種は、厚生労働省によるワクチン接種「緊急促進」事業だった。

 何をそんなに緊急に急いでいたのだろうか。間に合わせなくてはならない「予定」でもあったのだろうか。その3年余りのあいだ、日本の未成年の少女たちの接種率は7割弱にまで高まったという。

 まったくナオミ・クラインの言うとおりだ、と溜息が出てしまう。甚大なショックを与え、人々の脳を「白紙状態」にして、同一情報のシャワーによって洗脳する。…… 

1%グローバリストたちによる「世界人口削減計画」は着々と進められており、大変遺憾ながら、その日本部門でも「削減政策」は順調に進められているようだ。

せめて Baby Safe Project の日本版があれば、ネット上に数多く書き込まれているママたちの不安から発する問いを解消してあげられるのに、どうしてそういうNPOを誰もやらないのだろう。

(…)

4. Avoid close proximity to Wi-Fi routers, and "smart" utility meters. Turn off routers at night.
​5. Whenever possible, connect to the internet using wired (Ethernet) cables.  

辛うじて、こちらの環境意識の高いプロカウンセラーが、Baby Safe Project の推奨する 4. の方向で、「WiFiのルータの電源を夜は切る」という対策を実践していることをブログで報告している。電磁波測定器の数値がアップされているので、説得力がある。  

しかし、本当にベストな家庭内の電磁波対策は、Baby Safe Project の推奨する 5. の方向であり、家族全員のネット回線を有線化してしまうことだ。 

コンセントでホームネットワークを実現する パナソニック PLCアダプター「BL-PA100KT」 

 そこで、自分もすでに自宅で導入しているPLC装置を熱烈にお勧めしたい。

有線なのに配線の手間が不要で、コンセントに差し込むだけ。乳幼児への電磁波の影響も心配なければ、無線と違って傍受される危険性もほとんどない。比較的安価で簡素で扱いやすい。良いこと尽くしなので、適任のロハスな誰かが、ママ友ネットワークを通じて広めてくれないだろうか。

この記事の中盤で、架空の娘を登場させた。名前も年齢もまだ決まっていないが、将来「とびっきり甘いアンソニー」を紹介してあげる約束までは、すでにしてしまったのだ。少し文脈を変えて、ぜひともその約束を守ってあげたい気がしている。

「キャンディーキャンディーのアンソニーって、甘いの? メロンパンアイスくらい甘い?」
「メロンパンアイス?」
銀天街のお店でママに買ってもらったの。大事にしまっているんだ。お店のきれいなお姉さんが書いてくれた似顔絵」 娘の靴下を見下ろすと、踵のふくらみがくるぶしの辺りに来ている。もう一度娘を座らせて、靴下の踵をあるべき場所へ戻してあげた。こんな小さな女の子が、いつか恋をする年齢になるなんていう野蛮な出来事が本当に起こりうるのだろうか。
「もちろん甘いに決まっているさ」と私は言った。「おまえのアンソニーはパパが探して見つけてあげるからね。とびっきり甘いやつをね」
「ありがとう」と娘は言った。そして玄関を出る私の脚に縋りついて「パパ、大好き」と付け加えた。

あのときの「とびっきり甘いアンソニー」が、すでに弾き語りの美しい曲となって、この世界に存在していることに思い至った。その種の贈り物が必ずしもアンソニーという名前で呼ばれる必要はないだろう。

架空の存在だからこそ本心を話せるということもある。おまえには、心おきなく自分の生命を輝かせられるような環境を作り出し、残してやりたい。「未来の弱者」へ向けてそう願うことが、梨であれ林檎であれ、(最高糖度でも何でもない)自然な甘さのある果実のような願いとしてどこにでも存在し、人々が自然にその願いを叶えられるような国であってほしい。心からそう感じる。

 

 

 

Quietly while you were asleep
The moon and I were talking
I asked that she'd always keep you protected

おまえが眠っているあいだに
私はお月様とこっそりお話をしていたんだ
ずっとおまえを守ってくださいますようお月様にお願いしておいた

 

She promised you her light
That you so gracefully carry
You bring your light and shine like morning

お月様はおまえがとても優美に輝くような
月の光に包んであげると約束してくださった
おまえは光をもたらして朝のように輝く

 

And then the wind pulls the clouds across the moon
Your light fills the darkest room
And I can see the miracle
That keeps us from falling

やがて月をおおう雲を風が引き寄せたとしても
おまえは最も暗い部屋でさえ光で満たし
私たちをつまずかせないような奇跡の光を見せてくれる

 

She promised all the sweetest gifts
That only the heaven's could bestow
You bring your light and shine like morning

お月様は最も美しい贈り物をすべて
おまえに贈ってあげると約束した
天上の存在だけが授けられる光を
おまえは光をもたらして朝のように輝く

 

And as you so gracefully give
Her light as long as you live
I'll always remember this moment

そしておまえは生きている限り
お月様からもらった光を
とても優美に人々へもたらしていくだろう
私は一生この瞬間を忘れない

アップルパイ―(シナモン+アップル)=?

今朝は雨。台風が近づいているせいだ。仕事の山場を越えて安心した瞬間、風邪を引いたり、休息を求めたりする正直な体をしているせいで、早朝に出社して少しキーボードを叩いてから、会社の通路に段ボールを敷いて倒れていた。激しい雨音を聴きながら、段ボールの上で寝ていると、どうしてもこの曲を思い出してしまう。

床の硬さは想定通りだとしても、枕がないのには閉口したので、せめてこの話を今日書く記事の「枕」にできないかと考えているうちに、眠りに落ちてしまった。

目覚めると、まだ雨は降り続いているものの、外が少し明るくなっている。「枕がない」を「真っ暗じゃない」につなげて枕にできることを思いついて、そうだよな、雨上がりでないと、空に虹はかからないものな、と思い直した。さあ、出かけなければ。ピンとしっぽを立てて。

というわけで、元隣町の図書館まで出向いて、借りたい本を借りてきた。元隣町の文化拠点には土佐礼子選手の石碑が立っている。そういえば、彼女はこのあたりの出身だった。そこからの連想で、彼女の公私最大のパートナーの勤務先が、同じく長距離走の文脈で輝かしい栄冠を勝ち取ったのを思い出した。

(当時ロケ地在住だった同僚から撮影裏話を聞いたこともある)同じ県境の内側に実在した女子集団をもじって、

「駅伝ガールズ」と呼ばれている彼女たち。

実は自分には仕事と並行して大学院に通っていた時期があり、必要取得単位に体育を組み込んだために、彼女たちと同じスポーツジムを利用する光栄に浴した。彼女たちと遭遇するのは、きまって今日のような雨の日。外を走れないので、彼女たちも肉体訓練をしにくるのだった。

傍らで見て感じたのは、彼女たちが敬服するほど禁欲的であること。おそらく速筋を鍛えていたのだろう。二人組になって、ごくごく軽いバーベルを高速で動かしながら、相棒がカウントだけでなくタイムまで測定していた。肉体訓練とはいえ、一切の手抜きなし。彼女たちの身体は、小枝のようなマラソンランナー体型だった。

禁欲的な減量に励むボクサーには、必ず「喰い屋」と呼ばれる知人がいるという都市伝説を聞いたことがある。減量中で食べられないボクサーの代わりに、「あれを食べてくれ」というボクサーの指示を受けて食べるのが仕事なのだそうだ。自分の好物を他人が食べる姿を見て、ボクサーの食欲はほんのわずかだけ慰められるのだとか。

誰にも頼まれてもいないのに、何だか彼女たちと運動した後は、自然と甘いものが食べたくなるような気がしたのは、どういう心理機制によるのだろう。単に自分の支持政党が、物心ついたときから甘党だったというだけなのだろうか。

あまり意識したことはないが、自分は言葉にも甘みが交じることがあるらしく、ある知人の50代の女性がセンター分けのショートボブだったので、初対面なのに「シナモンみたいで可愛らしいですね」と言って、彼女を大喜びさせたことがある。後でどうしてそんな甘いことが言えるのかと訊かれたが、あれは私の言い回しにではなく、シナモンという存在自体に可愛らしい訴求力があったのではないだろうか。

 流行に乗ってお茶目に壁ドンを試みるも、壁に届かないところが可愛らしい。吃驚したのは、シナモンが実写で空を飛んでいる画像。

 台詞から判断すると、飛んでいきたい相手がいれば、本当にああやって飛んでいくようだ。見習いたい抜群の行動力だ。

そてにしても、何だろう。あの青空の真っ只中の孤独感というか寂寥感。強いて擬音語で表現するなら、こんな感じだろうか。

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

中原中也 (講談社文芸文庫)

中原中也 (講談社文芸文庫)

 

ただし、甘いもの好きだからといって、自分がどんな状況でも甘い言葉を囁くことができるかというと、いつもうまくいくわけではない。簡単じゃないんだ。

U2「With or Without You」のジャズ・バージョンを背景に流しながら、例えば80年代に流行した「クリープの入っていない珈琲なんて、星のない夜空のよう」 というお題を与えられたとして、即座に愛を囁ける人がどれだけいるだろうか。制限時間は3分。上の句は「きみのいない人生なんて、…?」だ。Go for It!

最初に思いついたのはコレ。

「きみのいない人生なんて、シナモンの入っていないアップルパイのようなものだ」

 うーん、いまひとつだ。シナモンとアップルパイの必要不可欠度が、100%よりかなり低いところに問題がある。クックパッド上の現在のレシピ数でいうと、シナモン入りのアップルパイが2190、シナモンなしのアップルパイが1730。シナモン入りのシェアは58%でしかない。

きっとこれはお題の出し方が悪いのだろう。

いや、もはや万人向けのお題になんか心を砕かなくてもいい。ここは、ごくごく個人的に、決死的勇気を振り絞って、「シナモンのいない人生なんて、…?」と相手に訊いてみたい。

嗚呼、恐ろしいことに、その問いへの正解は、この広大な宇宙にたった1つしかないのだ。無数にありうる答えの中から、「アップルの入っていないアップルパイのようなもの」という唯一解を、果たして相手は口にしてくれるだろうか。

そしてそのとき、アップルパイからアップルを引き去ったあとのπに、こちらがうまく調整した事情を掛け合わせれば、円面積のごとき中身の詰まった円満な関係が生まれることにまで、相手は思い至ってくれるだろうか。

いや、それは難しい。難しすぎる。確率でいえば one in a million ぐらいだろうか。至難の業だというほかない。

現実は甘くないのだ。

甘くない現実に必死に喰らいついて、たゆまず長距離走の鍛錬を重ねたオリンピック選手にだって、いったん足を踏み外せば、悲しい転落が待っている。

同じく摂食障害が元で、あの五輪金メダリストも、わずか19歳で引退を発表しなければならなくなった。 

 話はもう一段恐ろしい話になる。ぜひ下の記事の全文に目を通してほしい。引退前のリプニツカヤも「リンクの上で暑く感じた。何が起きたのかわからない」と証言したという。

同じく、ネット上の覚醒民のトップ・オピニオン・リーダーも同じ意見だ。

ソチ五輪から三年半。ようやく主流メディアも、広義の電磁波兵器の実態について、関心を寄せ始めた。一種のサイレント・ウェポンである電磁波については、これからも視線を注いでいくことにしたい。

このような世界の遠くにある暗い現実と比較すると、四国の片隅にある地元私大の全国制覇は、手放しで喜びたい華やいだ吉事に思える。しかし、地元のごく一部では、小さな悲報も囁かれている。

上記の江川紹子の記事は、盗癖が摂食障害が原因である可能性を指摘しているが、風の噂では「駅伝ガールズ」の中でも、同じような事案があったらしい。

きつい練習に心身が悲鳴を上げて、仲間のお菓子をつい盗んでしまい、それが露見してチームを去った子が一人いると聞いた。あくまで噂でしかないし、どう対処すべきだったかを論評する立場にはないが、長距離走の選手にありがちなそのような症状に対して、彼女をチームから排除する以外に方法はなかったのかなと嘆息してしまう。

在籍中の数年間、あれほど毎日走り込みつづけた日々から、ふと外へ追い出されたとき、おそらくは摂食障害を抱えていただろうその女の子は、無事に次の目標を見つけられただろうか。それへ向かって再び走り出すことができただろうか。マラソンしか知らないだろう二十歳前後の彼女が背負ってしまった困難の重さに、ふと思いを馳せてしまう。

…台風が過ぎ去ったかもしれない。いつのまにか、雨もやんだようだ。

その彼女の次の目標が何であれ、そこを目指して走りだすことがどんなに困難であれ、名前も顔も知らない彼女の再出発に声援を送りたい気分だ。

再出発するのに、遅すぎることはない。それぞれの方角へ、雨上がりの虹を探しに、また走りだせばいい。求めるものが、たとえどれほど至難の難問、つまりは至難問だとしても。

 

 

幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて
隠したナイフが似合わない僕を おどけた歌でなぐさめた
色褪せながら ひび割れながら 輝くすべを求めて

 

君と出会った奇跡が この胸にあふれてる
きっと今は自由に空も飛べるはず
夢を濡らした涙が 海原へ流れたら
ずっとそばで笑っていてほしい