自分を置いて失踪したせいで、逢えなくなった兄について考えていた。

兄は禁煙していると吹聴しつつ、喫煙者たちの前で禁煙が苦しいと切実に訴えて、煙草を恵んでもらうのが得意だった。これがたまらなく美味いんだと笑って、兄は器用に口をすぼめて、宙に輪の形の煙を吐いたものだ。と、思い出を語り始めてすぐ、自分にはそもそも兄がいなかったことを思い出した。

失踪していなくなった兄が虚構になって自分の頭の中にいるのか、虚構の兄がどこかに実在していて彼が頭の中にいるのか、どちらなのかはよくわからない。少し前に新海誠について書き、昨晩カーツウェルについて書いて、ようやく兄に少し追いつけたような気がしている。いや、それも嘘だ。兄は私が15歳のとき失踪していなくなったので、兄の残像は眩しい光の中で毎年若返りつづけている。限られた一過性の季節だけにある瑞々しいあの若さには、もう少しも追いつくことはできない。そう考えて胸に小さな痛みが走ったとき、自分にはそもそも兄がいなかったことを思い出した。

 けれど、兄のいる友人たちが、どことなく羨ましく感じていたのは覚えている。少し先を走っている背中がいつも見えて、時には振り向いてくれる存在がいるなら、未知の海をいく航路も揺らぎ少なく進めるというものだろう。Cargo Ship に多少の重荷が載っていても、適量のバラスト水が入っていれば、航行が安定するのに似ているだろうか。砂時計だって、下にある硝子卵に黒砂がたくさん入っている方が安定して見えるものだ。 

 

 

 

 

 

新聞記者 (角川新書)

新聞記者 (角川新書)

 

 

 

(書きかけです)

悪魔に baby faith は貸さない

信号が青になるのを待っている。

上の記事を書いてから、約3か月。どうしたことだろう。しあわせの青い鳥に会えそうな流れには全然ならないな。 I wasn't born yesterday. 誰がどんな理由で邪魔しているのかはっきりすれば、どうだって対処できるのに。

とか考えながら、信号の青を待っている間に、とうとう読書をしなければならない羽目に陥った。必要があって車を走らせなくてはならない。その後に休日なのに出社しなければならない。それでも読まなければならない。時々、青信号に変わったのに気付かずに、後ろの車に軽くクラクションを鳴らされる。ごめんなさい。

もちろんゆっくり食事をする暇もないけれど、気分がブルーになってしまったら、気持ちだけでも「アモーレ! マンジャーレ! カンターレ!」なイタリア人の雰囲気で行きたい。まずは車中でカンターレを実践すべく、カーステレオのつまみを回すと、暗い曲がかかってしまった。

続く「カナリア」も暗いといえば暗い。「炭鉱のカナリア」の気持ちを歌っているのだろうか。今の自分には、こんな風に聞こえてしまう。

カナリア、かなり厭、カナリア、かなり厭… 

 いけない、いけない。もっと気分をイタリアン・トマトな陽気な朱色にしてくれる曲を聴かなきゃ。そう思って tune したのが、この曲。

中学時代にマセた女の子に、「結局のところ、あなたって、聖子派なの? 明菜派なの?」と訊かれて「その二者択一という設定自体が間違ってはいないかい?」と複眼思考で訊き返したような記憶がある。実際は、中学三年生の数か月間、小林麻美派だった。多数派ではなかったが、風は少しくらいなら冷たい方が気持ちがいいものだ。

というわけで、やっとイタリアに辿り着いた。

スローフードロハスの違いは?

これについて正確に言及している人は宮台真司しかいないみたいだ。検索でこのサイトに来る読者のために、自分の言葉で要約しておきたい。

スローフード

生物多様性保護と同じベクトルの文化多様性保護。健康より地域の食文化を美味しく楽しむことに主眼がある。マーケッティング外にある食文化を地域の人々の力で維持しようとする運動。反グローバリズム的。

ロハス

先進国に一定数生息する健康志向で環境保護志向な人々へのマーケティング戦略スローフードより健康志向が強い。マーケティング内にある食文化を強化し、拡大しようとする消費者カテゴリー認識。親グローバリズム的。

ロハスを積極的に推進しているのは、世界最大のスーパーチェーンのウォルマートだ。

 ビジネス専門誌『FORTUNE』が2006年8月7日号で,「ウォルマートが地球を救う」との特集記事を掲載し,ウォルマートの企業戦略の変身ぶりを紹介したことでも明らかなように,ウォルマートに対して,企業の社会的責任経営への要求が強まり,環境にやさしい商品や健康に良い商品へ取り組まざるを得なくなっている。10) 米国では,オーガニックブームで,「ロハスLOHAS)消費者層」(Lifestyles of Health and Sustainability)と呼ばれる健康に良い商品を望む顧客が存在しているため,高付加価値の有機食品開発に重点を置いている。 

http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/579/co-n55v2_3-p89-114-uzu.pdf?sequence=1

世界最大規模のウォルマートには、それにふさわしい情報が飛び交っている。NWOはプロレスではなく、現実的闘争のようだ。

今晩は陽気な気分で過ごしたいので、話をスローフードに戻そう。

英語の Wikipedia にもきちんとした経歴が紹介されていないのは、いくら何でも情報普及がスローすぎるだろう。イタリアでスローフード運動を普及させたカルロ・ペトリーニは、実はカルチェラタンにいた「パリ五月革命」組。その運動展開に正の政治性を読もうとしない方がどうかしている。

 世界標準のスローフード運動の実態は、この記事に詳しい。

 スローフード運動の主な使命は、「地域の食文化や伝統の消滅を防ぎ、ファストフードやファストライフの席巻を阻止し、自分たちの食べている物について、またそれがどこから来て、私たちの食べ物の選択がどのように世界に影響を与えるかについての人々の興味の減退に対抗する」ことである。これは確かにかなり壮大な探求であるが、「おいしい、きれい、ただしい」という一般的な言葉を使って、以下のようにわかりやすく定義することができる。

 

スローフードとは…… 

  • おいしい 私たちの味覚を満足させ、地域文化の一部となっている、新鮮で風味豊かな旬の食べ物
  • きれい 環境、動物の福祉、または人間の健康を脅かすことのない食料生産および消費
  • ただしい 生産者にとって公正な条件と報酬、および消費者にとって手ごろな価格

 生産者および生産物は、「おいしい、きれい、ただしい」というテーマを満たすために、例えば「オーガニック」や「フェアトレード」といった認証を必ずしも受ける必要はない(もちろん受けた方が望ましいのではあるが)。また、サステイナビリティ(持続可能性)という言葉が大々的に取り上げられることもない。地球と人々を正しく扱うということが、この組織の哲学における前提である。それは、食べ物を単に商品とみなす考え方を否定し、食の生物多様性を世界の文化的多様性の象徴ととらえ、その両方を守ろうとする理念である。

 「食都神戸」とも提携企画がスタートしている。

ただ、 「味の番人」たちを各地に派遣して絶滅危惧「食」を救おうとしたり、「味のサロン」というフードイベントを開催したり、「味の大学」を開講してあるべき食育をほどこしたり、といった代表的なスローフード運動よりも、カルロ・ペトリーニの思想の可能性の中心は、フランスのAMAPやアメリカのCSAにあるのではないかと、前々から感じていた。

AMAPの仕組みは至って簡単。
有機農家が近隣の自治体を通して買い手を募り、自治体が無償又は低価格で提供する場所で、予め農家が選別した野菜や乳製品、卵などの受け渡しが行われます。

頻度は週一回または隔週。
AMAPが生産者にもたらす利点は、作り過ぎや売り残しを防げるということ。

(…)

買い手側のメリットは、受け渡しが近所であることはもちろん、季節の有機野菜を定期的に摂取出来るので、自然で健康的な食生活を続けられるところにあります。

 

また、各AMAPの宣伝は自治体が引き受け、野菜の仕分けは登録者がローテーション且つボランティアで行うなど、文字通り皆が協力することで成り立っています。


日本にも「地産地消」という言葉がありますが、それをオーガニック作物に限定したのがAMAPであり、食料自給率120%の農業大国ならではの、効率的且つ贅沢なシステムといえるのです。

日本での代表的な取り組みは、伝統ある共同購入 / 個別宅配の co-op と、最近話題になった楽天のCSA「Raguri」になるだろうか。

(神奈川、静岡、山梨県のみ)

こういう新しい農業の取り組みをネットサーフィンで覗きながら、しかし、どこか違うなと感じていたときに出会ったのが、近刊のこの本 。日常生活のどこかに農業や農産物と関わる人、つまりはほとんどの野菜好きにとって、必読の書ではないだろうか。

消費者も育つ農場〜CSAなないろ畑の取り組みから〜

消費者も育つ農場〜CSAなないろ畑の取り組みから〜

 

 まだ Amazonレビューはゼロ。意外なことに、メディア露出もこれまでほとんどないようだ。予言しておくと、今後かなり近いうちにテレビ東京系の「ガイアの夜明け」の取材が入るにちがいない。自分のように押韻や言葉遊びを重視する人物がディレクターなら、「なないろ日和」が先鞭をつける可能性も高い。またしてもやってくるのか、Rainbow Connection よ!

この「なないろ畑」の運営手法は、トゥルーCSAという。著者の片柳義春はそれを「消費者参加型農業」と表現している。

  1. 会員制(1年ごと、1シーズンごと)である。
  2. 会費(代価)は事前に支払う。
  3. 主格物の野菜などのセット(シェア)を定期的に受け取る
  4. 消費者から運営資金の拠出、農作業・出荷作業などの労力提供

この基本的なスキームのもとで15年間農場を運営した結果、そこに何が育ったのか。スクロールを急がずに、当ててほしい。

このリストは、かなりニュース・バリューがあると思う。

  • 年会費制かつ前払いなので、経理作業を簡略化でき、キャッシュフローを改善できた。
  • 有機栽培が、技術的困難がさほどなく、安全でおいしい野菜を生産できることがわかった。
  • 農場運営の工夫や効率化により、市場よりやや割安で野菜を提供できるようになった。 
  •  出荷場をカフェ「なないろ食堂」に改装し、そこで余った野菜や形の悪い野菜を調理して、食品ロスを減らせた。
  • 持ち込み企画に応えて、地域の音楽バンドや合唱団などの発表会を開き、コミュニティーが生まれるようになった。
  • 自ら企画して、講演会やドキュメンタリー映画の上映会や料理教室などの情報発信の場にできた。
  • 他県の優れた農産物の共同購入組織としても機能するようになった。
  • 一人暮らしの「孤食」が厭な人が集まって、食材を持ち寄って共同調理する食事会が開かれるようになった。
  • 希望者有志に農地レンタル(トラスト)をする事業も好調。
  • 朗読会やこども囲碁教室や吊るし雛をつくる会などのコミュニティーの場となった。
  • 失業者向けの就労支援関係の人々、貧困児童向けのこども食堂、身体障碍者や精神障碍者の園芸療法の場として、現在もしくは今後、活用されることとなった。
  • 農業生産法人として株式会社化できた。
  • 地域通貨を発行することができた。
  • 社会福祉事務所と連携して、失業者などを受け入れる「農福連携」型セイフティ・ネットとなることができた。

書き出していくと14項目になった。筆者は受け継いだ家業を45歳の時に辞めて、15年でここまで漕ぎつけたのだという。ちょっとここまでの成功例というのは考えにくい。筆者が自身の仕事を振り返って、「この農場で育った一番のものはコミュニティです」と繰り返すのも納得できる。宮台真司のいう「『近接性(プロキシミティ)』によって正の循環を回して生活世界を回復する」というのは、こういう実践例を言うのだと思う。

「向かい風(アゲインスト)でもポジティブに」を座右の銘に加えたばかりの自分は、「なないろ農場」にかなり強い追い風(フォロー)を感じる。今後マスメディアで引っぱり凧になるのではないだろうか。

運転の信号待ちで読了したので、読み落としているかもしれない。一定の農作業を消費者が提供して、農作物を分かち合うCSAは、最高の「食育施設」になるにちがいないことにもいま思い至った。

個人的なことを2つ付け加えさせてほしい。

実は、自分はかなりのベビーリーフ好きだ。産直市場に行くと必ず買い求める口だが、あまり良いものが出回っていない。鮮度が落ちやすいらしいのだ。月に一回でも、子供たちの「食育」がてら、ベビーリーフを摘みにいくような生活を送れたら、それは幸福な休日の過ごし方になるような気がした。

 もう一つ、「なないろ畑」の成功の背景には、45歳で農業へ転身した片柳義春が、慶応大学出身という学歴以上に、きわめて勉強熱心であり、かつ強いリーダーシップの持ち主であることにも言及しておかなければならない。巻末の参考文献リストには、一見したところ有機農業とは無関係な書物も散見される。宮沢賢治賀川豊彦はギリギリわかるとしても、自分がこの記事で言及したナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』や堤未果の『貧困大国アメリカ』までリストアップされているのにはビックリだ。

片柳義春の人生上の転機は2002年頃、「なないろ畑」を始めた時、ということになるだろう。なぜ2002年だったか推測できるだろうか? その転機で踏み出した「新時代の方向性」へは、2011年の3月11日以降、さらに多くの人々が合流した。

 3.11以降も、多くの人は「震災や原発事故を忘れよう。忘れたい」という正常化バイアス(精神の傾向)が働き、以前の状態に戻っていきました。

 しかし「これまでのことは信用できない、自分で何とかするしかない」と気づき、自ら情報を集め、考え、行動することで「変えよう、変わろう」と動き出した人たちも少なからず出てきました。(…)

 CSA農場は、そうした人たちにとっては格好の学びの場になれると思いますし、なないろ畑も、そうした姿勢の人たちを育てていきたいと考えているのです。 

2001年の9.11の直後、ゼロから「新時代の農業コミュニティ」を創出した片柳義春も、あのとき弾けた菫の種子の一人だったのかもしれない。そう自分は推測する。

堤未果の近刊の中では、例の四既成概念の提唱者であるレッシグが、大統領選挙へ立候補する原点となった逸話が紹介されている。

『で、先生は何をするんだい? 今起きている問題、根っこが腐ってる今の政治を、どう やって立て直すつもり?』と」
 アメリカの憲法と民主主義が、カネで政治を買う1%の超富裕層によって破壊されていることを、まだ若いアーロンはその時すでに気づいていた。  レッシグ教授が「私は学者だし、そういうのは専門外だ」と答えると、アーロンは教授の顔を不思議そうにじっと見てから、こう言ったという。

「それは、学者としてはそうかもしれないけど。じゃあ市民としては? 一人の父親としてはどうなんだい? それなら諦めないだろ?」

「彼のその言葉を聞いた時、何故か我が家のリビングで4歳の息子に急に抱きつかれた時と同じ気持ちになりました。なんというか、私の心の深い部分が、強い力で揺さぶられたような感じです。

 今まで『自分は学者だ。政治とは距離を置く』などと思っていたことを、初めて恥ずかしく思った瞬間でした。そして、そこから全てが始まったのです」 

政府はもう嘘をつけない (角川新書)
 

「子供が信じられる世界」を、子供が信じている大人が創り出さなくては。そのような原初的な衝動の強さを、他の何が否定しきることができるのか、自分は知らない。baby faith にどんな face を向けるべきなのかを、私たちは考えるべきだろう。 

 また「幼い子供」を持ち出すのは、それ自体が幼い引用行為だろうか。中三の頃、生徒会長として少年式の自作の式辞を読み上げるとき、「稚心を去れ」 という橋本左内の言葉を引用したのを思い出した。と、「幼い」と「左内」の音韻上の重なりから、話を続けていくと、ますます文章は幼い感じになってしまうだろうか。

いや、もはやそんな曖昧な文章精神年齢の高低にこだわっても、意味をなさないだろう。レディー・ガガは悪魔に魂を売ったことを酷く後悔しているという。

「悪魔に魂を売らない」だけでなく、どんな特殊な状況にあっても、心揺らぐことなく、「悪魔に魂を貸さない」ことが大事、とだけ押韻しつつ書きつけて、この文章を終えようとしたその筆先が、「行かなくちゃ。きみに会いに行かなくちゃ」とつづけて文字を書き継いでしまう理由を、読者はすでに理解しているにちがいない。 

 

 

 

(自分のお気に入りの「Amore」は、この曲)

ポジティブ十割蕎麦

昨晩の記事の最終行で自分に注文した「パうどん」を食べようとしたが、なかなか箸が進まなかった。検索すると「パうどん」の製造元は北海道にあるらしい。何となく従業員全員があらゆる言葉を訊き返していそうな先入観を持ってしまう。

箸が進まなかったのは、どうしても「追い鰹」に似た「追いポジ」を思いつかなかったから。悲しい気持ちになって、スティーヴィー・ワンダーを聴きながら、ぼんやりと空想を追っていた。 写真の奥にいるのは、シンセサイザーの発明者レイ・カーツワイル。彼は視覚障碍者向けに文書読み上げ装置を開発したことでも知られている。

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(Historic photo of Ray Kurzweil with Stevie Wonder playing a Kurzweil 250 synthesizer in 1985. (credit: Kurzweil Technologies))

こういうときは焦ってもだめだ。ビジョナリー泉田は、誰よりも産業構造の近未来を知っているので、彼の著作をもう一度復習してみよう。

 2013年くらいに仕事と並行して大学院に通っていた。そこで、自動車産業論の講座を取って、日本の自動車メーカーが世界を制覇した理由を、教授とマンツーマンで話しながら調査していった。アメリカはNUMMIという合弁工場を立ち上げて、世界一のトヨタに必死にキャッチアップしているように見えていた。

それが今や、NUUMI は電気自動車専用メーカーのテスラの手に渡ったらしい。

初代モデルSは外観スタイルが自分好み。しかし、注目すべきは、以前から自分が記事に書いてきた V2H(EVに貯めた電気を家庭に給電して利用するシステム)を、すでにテスラが推進していることだろう。

 テスラが運営する NUUMI を取材した東洋経済の記事では、この2か所を確認しておきたい。

一般的にガソリン自動車に比べ、EVは部品点数の少なく、その分製造工程も少ない。実際、エンジンが1000点以上の部品から成るとされる一方、「テスラでは(モーターを含む)パワートレインの部分は17個の部品しかない」(テスラ担当者)と、差は歴然としている。

(…)

生産技術自体が、既存の自動車メーカーにとって高いハードルでないとしても、設備や従業員など抱えているものが多い従来の自動車メーカーほど「(設備や従業員の削減につながる)EV生産には踏み出しにくいのでは」(テスラ関係者)との声も聞こえる。 

 泉田良輔の著作から学んだのは、バリューチェーンの伸縮とCCCの伸縮が企業の生存競争にとって、大事なファクターになっていることだった。

バリューチェーンとは、上に書いた経営戦略論史のうち、『競争の戦略』のポーターが提唱した概念。原材料が製品になるまでに、付加価値をつけられていく多段階連鎖のことをいう。東洋経済記事からの引用の前半部分では、ガソリン車よりも電気自動車の方が数十倍分バリューチェーンが短いことを示している。

ICTの進化によってバリューチェーンが短くなればなるほど、新規参入の障壁が下がり、過当競争となるので、イノベーター企業は市場を移動し、あるいは市場を移動させて、「下層採鉱」へと邁進することになる。

東洋経済記事からの引用の後半部分は、長いバリューチェーンを抱えた既存企業が、市場を移動する・させる動機づけが乏しくなってしまうことを示唆している。実際、泉田良輔も、トヨタハイブリッド車展開には、同じような懐疑論を持っている。

つまり、既存の長いバリューチェーンを抱えた組織は、ともすれば「次世代戦略」が長いバリューチェーン(この場合では無数の下請け部品会社)の維持を自己目的化した革新性の乏しいものになりがちなのである。未読ではあるが、日本の電機産業がブラウン管テレビから液晶テレビへ移行する際の「バリューチェーン伸縮のまずさ」を、泉田良輔は最初の著書で確認したのにちがいない。 

日本の電機産業 何が勝敗を分けるのか

日本の電機産業 何が勝敗を分けるのか

 

さらに『Google vs トヨタ』で示唆的だったのは、トヨタの世界覇権は「長いバリューチェーンを手動で最適化して廻す能力」にあったのではないかと示唆している点だ。トヨタ流モノづくりの代名詞となっている「カンバン方式」や「ジャストインシステム」は、確かに「ロング・バリューチェーン最適手動回転」を意味している概念だ。「ロング・バリューチェーン適応」がトヨタコア・コンピタンスであるなら、「日本のモノづくり」代表企業だとの国民的誇りとは裏腹に、トヨタの今後の見通しは思ったより暗いかもしれない。

ICTの加速度的な発達は、バリューチェーンを短くするだけでなく、CCC(仕入れから現金化まで循環する日数)も短くする。CCCの短期化は、企業の新規市場開拓を推進するキャッシュとなる。株式だけでなく、このCCC短期化を活用した「下層採鉱(新たなロング・バリューチェーンを獲得可能)」が、イノベーションの原動力となっているようだ。結論の一部として書けるのは、しばしば言及されるように「バリューチェーンの設計こそが企業活動である」なら、イノベーションとは、企業体の重心そのものを移動し、それによって市場を移動させるのをかのうにすることだ、とも言えるかもしれない。

 ここまでで自分の頭の中は整理できた。しかし、今後10~20年で仕事が半減するとも言われる産業構造の急激な変化のうち、どこから「ポジ出汁」をとっていいのか、一向にわからないのだ。

企業体の重心=中心が変わるということは、セントラルの遷都… と言葉がつながったあと、わずか5年の間に4回も遷都した聖武天皇のことが頭に浮かんだ。どないなっとんじゃい、聖武な話。

平城京恭仁京難波宮紫香楽宮平城京

 このフローチャ―トをじっくり見ているうちに、ビジョナリー泉田にも見えていないかもしれない「ポジ出汁」の「だしの素」が、ちらっと見えたような気がしたのである。

 平城京恭仁京難波宮紫香楽宮平城京→(1300年間くらい)→ポスト京

 「2位では駄目なんですか?」「ネットワーク効果があるので1位でないと駄目です」

と誰かとやりとりした上で、スーパーコンピュータ「京」の後進の開発計画を追ってみよう。現在の日本で唯一その未来にワクワクできる分野かもしれない。 

記事はまず、日本が2018年4月を目標に、人工知能処理向け大規模・省電力クラウド基盤(ABCI)を完成させようとしていて、完成すれば現時点で世界最速のスパコンである中国の神威・太湖之光を超える演算速度を持つことになると警戒感を示した。

 続けて、専門家の見解として、現在のスパコンは個人向けのコンピューターの100万倍ほどの性能を持ちで、一般のコンピューターが3000年掛かって計算することを、スパコンならば1日あれば計算できるとし、ABCIは車の自動運転技術、ロボット、医療診断技術に応用でき、こうした分野の発展を加速させることができる見通しだと伝えた

(強調は引用者による)

 続いて2014年3月28日、国の独立行政法人である理化学研究所は4月1日付で、「エクサスケールコンピューティング開発プロジェクト」を発足させて、ポスト「京」となるエクサスケールのスーパーコンピュータと、その性能を引きだすアプリケーションの開発に着手することを正式に発表した。京速計算機「京」のときの開発費を3割ほど超える、総事業費1400億円で開発を行い、2018年度から生産と設置を開始して、2020年度からの運用を開始する予定とされる。ここに、我が国の次世代スーパーコンピュータ開発が、声高らかに始動したのである。

(強調は引用者による)  

エクサスケールの衝撃

エクサスケールの衝撃

 

引用部分と、上記の日経BPの「遅延」記事を総合すると、本格運用は今から5年後の2022年頃になりそうだ。わずか5年後だ。その5年後から始まる「ポスト京」の稼働予定ぶりがぶっ飛びの凄さだ。

健康長寿社会の実現

1. 生体分子システムの機能制御による革新的創薬基盤の構築(約80日)

2. 個別化・予防医療を支援する統合計算生命科学(約80日)

防災・環境間題

3. 地震津波による複合災害の統合的予測システムの構築(約70日)

4. 観測ビッグデータを活用した気象と地球環境の予測の高度化(約100日)

エネルギー間題

5. エネルギーの高効率な創出、変換・貯蔵、利用の新規基盤技術の開発(約80日)

6. 革新的クリーンエネルギーシステムの実用化(約10日)

産業競争力の強化

7. 次世代の産業を支える新機能デバイス・高性能材料の創成(約80日)

8. 近未来型ものづくりを先導する革新的設計・製造プロセスの開発(約65日)

基礎科学の発展

9. 宇宙の基本法則と進化の解明(約100日)

将来性を考慮し、今後、実現化を検討する課題(萌芽的課題)

10. 基礎科学のフロンティア――極限への挑戦(約70日)

11. 複数の社会経済現象の相互作用のモデル構築とその応用研究(約10日)

(新)12. 太陽系外惑星(第二の地球)の誕生と太陽系内惑星環境変動の解明

(新)13. 思考を実現する神経回路機構の解明と人工知能への応用(約80日)

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shinkou/035/gaiyou/__icsFiles/afieldfile/2014/09/16/1351943_01_1.pdf

 (全文は上記のPDFで読める) 

 それぞれが大きな成果を創出したとしたら、日本は、先進国の中でも頭が1つ以上抜きんでた、大きな国力を持つようになることは間違いないであろ う。それこそが、すべての先進国が総力を挙げて、その未来を賭して次世代スパコンを開発する理由に他ならない。

 それはすなわち、近未来の先進国の国力が、次世代スーパーコンピュータによって決まってしまうと言っても過言ではないのである。 

上記の2冊の著者である齊藤元章は、エクサスケール(京の100倍)のスーパーコンピュータの出現が、人類の歴史を飛躍的に塗り替える「前特異点(プレ・シンギュラリティ)」を形作ると主張する。そして、前特異点到達後、人類はフリーエネルギーを開発し、エネルギー問題と食糧問題と医療問題を解決してしまい、人類はほぼ「不労」かつ「不老」の人生を手に入れると続ける。

あイタたたた… 頭が痛くなってきた。そんな世迷言を口にするのは、どこかのSF狂かオカルト狂に決まっているだろ。どこの馬の骨が書いたんじゃい、聖武な話。 

 しかし、どんな無理解に満ちた批判をぶつけられても、齊藤元章は自身の主張のセントラルを遷都しようとはしないだろう。何しろ、齊藤元章自身が、最先端のプロセッサ開発に当たっている最大効率型少数精鋭部隊10人の一人なのである。信じるべき話を信じられない原因は、私たちの固定観念の方にある。

この記事の冒頭、スティーヴィー・ワンダーの隣で、自身の発明したシンセサイザーの手ほどきをしていた発明家が、今や世界をリードする「未来学者」になっていることにお気づきだろうか。

この最新の有望分野を理解するには、未来学者レイ・カーツワイルの壮大な未来予測を、或る程度は真に受けておいた方が良いだろう。眉に唾をつけたままでもいいので、いくつかの記事を虚心に読んでほしい。  

 しかし、情報テクノロジーは線形的な発達ではなく、指数関数的な発達をします。 
 たとえば、「ヒトの遺伝子の塩基配列をすべて解析する」というヒトゲノム計画。このプロジェクトは、1%の解析が終わるまでに7年を要しました。多くの科学者や批評家たちは、「1%の解析に7年かかったのだから、すべてを解析するにはその100倍、700年かかる」と予測した。線形思考ですね。
 しかし、私は、「1%終わったのなら、もうほとんど終わりに近づいている」と考えました。この分野の研究は、毎年倍々で結果が伸びていくから、次の年には2%、その次の年には4%、その次の年には8%……つまりあと7年で解析は終わりだ、と。実際そのようになりました。 

 シンギュラリティを提唱したレイ・カーツワイルは、人類は6段階の進化を遂げると言っています。今はまだ4段階目で、シンギュラリティによって5段階目に到達するそうです。5段階目は何かというとロボットと人間が相互に高め合う時代。ただ、そこまでは理解できるんですけども、6段階目は宇宙と調和すると予言しています(笑)。
 こんな話をすると頭がおかしいと思われるかもしれませんが、まずはシンギュラリティを超えるところからですね。6段階目に行くにはロボットと人間が高め合わないといけない。その先に行くには人間だけでは到達できず、ロボットの力が必要となるので、まずは5段階目に行けるように、今がんばると。それがわれわれの置かれている立場ですね。

上のインタビューで言われている「宇宙と調和する」という表現は、正確には「宇宙が覚醒する」である。完全にスピリチュアリズムの範疇にある表現なので、信じられない人がたくさんいることも理解できる。

話を小さくしよう。というわけで、各国が未来の国力を賭けて開発競争に勤しんでいるということは、都市計画にまで「下方採鉱」したサービス・プラットホームの中核を、クラウド型の「ポスト京」が担う可能性が高いだろう。

日本の命運を背負う精鋭部隊のひとり齊藤元章は、日本のスーパーコンピュータが絶対性能で多少遅れをとったとしても、アルゴリズムや解析性能やソフトウェアの実装の容易さなどの総合力で見れば、依然として世界一位であることを示唆している。

日本の都市の自動運転車たちを自動制御するのは、ポスト京かポストポスト京になる公算が高そうだ。そのサービスプラットホームに連なるバリューチェーンの長さは、有難いことに、日本の労働需要や製造業を大きく押し上げることだろう。

 

 

今晩はしっかり「ポジ出汁」が取れたので、執筆後の夜食の蕎麦が美味しくなりそうだ。

このブログでは、さまざまなフランス人系の固有名詞に言及してきた。ジャン⁼ピエール・リシャール、ガストン・バシュラールルネ・シャール… 暫定的結論としてここに書きつけなければならないのは、この固有名詞のようだ。「バシャール de ござーる」。 

少しばかり余談を付け加えておきたい。

特異点到達後、人類はフリーエネルギーを開発し、エネルギー問題と食糧問題と医療問題を解決してしまい、人類はほぼ「不労」かつ「不老」の人生を手に入れると続ける。

日本を代表する研究者の齊藤元章による「常識外れ」のこの発言を読んだとき、自分は少しも驚かなかった。驚かなかったどころか「待っていました」と心の中で呟いたのだった。量子コンピュータにしろ、フリーエネルギーにしろ、それは10年以上前からバシャールが常々言っていたことと、まったく同じだったからである。

となると、人生をワクワクしながらポジティブに生きている人は、同じ周波数の人々が乗る専用列車に乗り込んで、2012年以降だんだん乗り換えができなくなる、という「バシャール流ポジティブ度選別型運命論」も、案外的中しているのかもしれない。 

バシャール スドウゲンキ

バシャール スドウゲンキ

 

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだあと、「フォースとともに歩みなさい」という台詞が心に刻まれた。自分にとって、遷都することなくセントラルに据えるべきフォースとはどんなものなのだろうか。フォースを存在全体へ行き渡らせ、しかもポジ出汁を利かせて、純度の高い十割蕎麦な魂で生きていくことはできるだろうか。

ここ数か月、「聖なるフォース」に属する存在からのポジティブネスが、自分の人生観を明るい方向へ軌道修正してくれたような気がしている。長距離ランナーが休憩所でミネラル・ウォーターを飲み干すように、十割のフォースそのものとならんとしている魂と身体に、ワクワク型ポジティブネスを漲らせて、また次の休憩所まで走ろう。そう思う。

行き先は?

蕎麦へ

 

 

 

(原曲は Stevie Wonder。カバーは MAYA)

おい、磯野ポジ、野球しにいこうぜ

四国のリーダーは松山なのか高松なのか。

県外の人と話をしていると、よくそんな話題になることがある。この記事はかなり詳細に分析してあって、地元民としてはとても面白い。途中にある「松山が大きな田舎で、高松が小さな都会」という表現は、言い得て妙だ。

いろいろと比較談義をしているうちに、松山はかなり分が悪くなってくる。ここはいったん潔く負けを認めておいた上で、高松は良いですが、「うどん県」自体が、もともと愛媛でしたからね、と四国の歴史を「下層採鉱」して、話を引っくり返してドローに持ち込もうとするのが、だいたいの松山人の戦略らしい。

(ちなみに香川県愛媛県の一部だったのは、1876年~1888年の12年間だけ)。

お隣なので「うどん遍路」にはよく出かけたものだ。自分が間違いなく美味だと感じたのが、宇多津にあるこのお店。 

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店内がそれほど混雑している感じがないのは、地元民があまり日参していないからだろう。価格帯も1000円弱なので観光客向けなのだろうか。200円くらいで美味いうどんを出す店がごろごろある香川では、普段使いの店になりにくいようだ。美味くて安くて毎日食べられる「シンプルうどん」を「うどん県民」は愛していると言っていいだろう。

そのような庶民の生活に根差した「シンプルうどん」的な思想を展開したのが、プルードン。19世紀のフランスの社会主義者だ。

「財産とは盗みだ!」と断言するほどの思想的強度はマルクスに匹敵するとも言われ、事実、マルクスは対抗心をもってかなりの分量のプルードン批判を書いている。プルードンによるラジカルな地域通貨の試みは、時の国家権力を弱体化させかねないとして、ナポレオン三世からの迫害を受けた。

そんなプルードンが、日本の思想界で一躍脚光を浴びたのは、柄谷行人の『トランスクリティーク』で再評価の舞台に引き上げられたからだった。 

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)

 

 地域通貨の実験を行ったNAMという組織は、約3年で解散してしまった。そこにあったプルードン的なアソーシエーショニズムの可能性は、本山美彦へと中心が移ったと捉えるべきなのではないだろうか。

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

 

 約10年前のこの新書が、2008年9月のリーマンショックの数か月前に書かれていたことに注意してほしい。リーマン・ショックが端を発した2007年のサブプライム住宅ローン危機を受けて、おそらく半年強の促成栽培で書かれたものだ。

ほぼオンタイムで、これほど1%グローバリストの金融複合体としての世界的病巣にメスを入れて的確に腑分けした経済学者は、本山美彦だけだろう。

このブログではお馴染み、シカゴ学派経済思想の持つ政治性に警鐘を鳴らし、「ヌーベル中央銀行賞」(主流メディアで「ノーベル経済学賞」と呼ばれている嘘のノーベル賞)の虚構性を指摘するウォーミング・アップも充分だ。吉川元忠の主張と読み比べてみよう。

 しかしノーベル経済学賞自体に大きな問題があろう。そもそも経済学は、自然科学、工学などのように「客観的科学」なのか、または文学のように「主観的なもの」なのか本来はっきりしないのである。にもかかわらず、客観性を持つように振る舞うところに最大の問題がある。しかし新古典派において典型的であるが、かつてK・マンハイムが述べたように(『イデオロギーユートピア』)、認識とはそもそもそれぞれの存在条件に縛られていることからすれば、それを言わないこと自体イデオロギー的であることに注意しないわけにはいかない。こうしたなかで「客観性」を前提としてノーベル経済学賞の授賞が行われている。しかしこれはスウェーデ ン銀行協会が創設した、元々ノーベルの遺志にはなかった賞である。ノーベルの遺族は経済学賞に批判的であり、「スウェーデン銀行協会賞」とすべきだと主張している。 

マネー敗戦の政治経済学

マネー敗戦の政治経済学

 

しかし、ノーベル経済学賞だけは、正確に言えば、ノーベル賞ではない。(…)一九九七年には、ノーベル文学賞の選考機関であるスウェーデン・アカデミーがスウェーデン国立銀行に対して、経済学賞の廃止を要請している。

 二〇〇一年には、ノーベル兄弟の曾孫、ピーター・ノーベルら四人のスウェーデンの人権は弁護士たちが、経済学賞は「人類に多大の貢献」をした人への授与というノーベルの遺訓にそぐわないとの批判を地元紙『ダーグラデット』に寄稿した。

 ピーターは、「ノーベルは実際、事業や経済が好きではなかった」とした上で、「ノーベル経済学賞」はノーベル記念スウェーデン銀行経済学賞に改めるべきだろう」と指摘した。 

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

金融権力―グローバル経済とリスク・ビジネス (岩波新書)

 

さも経済通であるかのような顔をしていると、愛読対象のエコノミストに話しかけてもらえる幸運が訪れることがあるのを最近知った。私の精一杯の経済通ポーズが、以下の記述。

ナオミ・クラインショック・ドクトリン』(…)の重要な到達点は、シカゴ学派系の新自由主義経済学が備えている「兵器性」を声高に批判している点だろう。

経済思想の「兵器性」が、シカゴ学派がその受賞者を多く輩出しているノーベル経済学賞によって権威づけられていることは間違いない。

ここにもとびっきりの洗脳がある。ノーベル経済学賞なんて、本当は存在しないのだ。1901年にノーベル財団によって創設されたノーベル賞とは違って、ノーベル経済学賞は半世紀以上遅れた1968年にスウェーデン中央銀行が設立した賞だ。

中央銀行群が裏ネットワークで結ばれたグローバリストの牙城であることは、もうほとんど常識だと思う。(…) 

さしあたり色眼鏡洗浄用の一杯のグラスの水として、「ノーベル経済学賞」を新しい紛い物という意味と創立者の金脈を織り込んで、「ヌーベル中央銀行賞」と呼んではいかがだろうか。 

1%グローバリストの金融複合体のじったいについては、これまで繰り返し言及してきた。今日はこの暗澹たる絶望的な状況から何にどのように働きかけて、社会をポジティブな方向へ動かしていくのかについて、本山美彦の提案を考えてみたい。

プルードン自身が印刷工の職人であり、市井にいながら印刷を通して学者や知識人(例えばフーリエ)と交流を深めた。本山美彦も育った経歴に木型職人の影響が大きくあるらしく、経済学の専攻を迷わずプルードンに決めたのだとか。

驚いたことに、「金融権力に抗するために」と題された章で、本山美彦が最初に挙げる例は、何とグラミン銀行なのである。言わずと知れたソーシャル・ビジネスの先駆的「雄」であり、ユニクロのソーシャルビジネスの提携先でもある。

最新著の『人工知能と21世紀の資本主義』では、70代半ばにして、ここまで先進的な事例(例えば、人工知能のシンギュラリティ以降の労働破壊)に分析の眼が及ぶのかと読者が嘆息を洩らすほどの情報強者ぶり、執念のこもった社会主義者ぶりを感じさせてくれたが、ポジティブな展開可能性は、暗号通貨ビットコインが対抗的な「人民銀行」(プルードン)となっていく可能性を祈るのみ。 

人工知能と21世紀の資本主義─サイバー空間と新自由主義

人工知能と21世紀の資本主義─サイバー空間と新自由主義

 

暗号通貨の覇権を結局は1%グローバリストたちに抑え込まれそうな情勢の昨今、ブログで採り上げて何かを書くには暗すぎる読後感だった。 

(1%グローバリストによる世界支配計画は着々と進行中だ。私たちはタチの悪いディストピアSFの世界を生きている。生き残りたければ、少なくともカレイドスコープのメルマガ購読をお勧めしたい)。

そこで、本山美彦の著作リストを少しだけ遡って、「金融ゲームを終わらせるために」私たちが取り組むべきなのは、ESOP(従業員持ち株制度)だとした提案を、個人的に検討してみたい。というか、時間がないせいで今から読むので、何が出てくるかはわからない。 

アソシエの経済学―共生社会を目指す日本の強みと弱み

アソシエの経済学―共生社会を目指す日本の強みと弱み

 

 うーん、一読、これはかなり苦しい感じだ。

 ESOP(従業員持ち株制度)の理念として肯定されているのは、主として、

  1. ストック・カレンシー(企業買収目的の株式交換)の結果生じる非倫理的な労働者切り捨てを防止すること
  2. 労使が緊密に協調して経営に労働者が参画すること

の2点だ。しかし、世界経済は、中小企業のみならず、大企業、それもモンスター級の多国籍企業ですら、迅速かつ適切にM&Aを行いつづけなければ生き残れないという苛酷な条件のもとにある。何とか、ESOPの現代的な可能性を見出そうと頑張ったが、数時間、自分の能力では無理だった。

ESOPの発案者であるルイス・ケルソが、資本主義と社会主義とを架橋しようと試みたことはよくわかるし、そこにマルクスプルードンの名を引くことも妥当だろう。しかし、ICTの発達による生産物のモジュール化、イノベーションのオープン化、M&Aを含む企業間境界線の漸次ボーダレス化は、激変する世界経済のもとでの企業活動のルールを大きく変えてしまったのではないだろうか。ESOPやケルソについて4冊の著作を持つジョセフ・ブラシを調べようとして、下の製品が表示されたとき、自分の心が折れる音が聞こえた。 

Joseph Joseph エッジディッシュブラシ ホワイト/グリーン 850253
 

話を転換しよう。泉田良輔の未来遠視力はきわめて卓越していると思う。昨晩触れた『Google vs トヨタ』にしても、本当はもっと書きたいことがたくさんあった。

ただ、世界的な巨人企業の対決なんて、怪獣映画を見ているようであまり切実な関心を持てない。それよりいつも通っているスーパーで今日はコロッケが安売りになっているというのは本当?と、日常会話で別の話題を訊き返した人も多かったようなので、今日は「日本の地方銀行がもうすぐなくなるよ説」について考えてみたい。 

銀行はこれからどうなるのか

銀行はこれからどうなるのか

 

 ①貸出を伸ばせない②利鞘が縮小する③利回りがないの三重苦に地方銀行が苦しんでいる。対策として、①→頑張って貸出を伸ばす、②→合従連衡により競合性を緩和する、の二つが挙げられる。どちらも困難なようだ。①は低金利と市場縮小の逆風に勝てず、②は合従連衡後も組織のスリム化が進みにくいからだろう。

泉田良輔が優れているのは、2003年のりそな銀行国有化の金融不安以降、ICTによって借り手の情報量が増えたことと相俟って、銀行への心理的経済的依存度が低くなったという推測的分析を出せるところだ。無借金経営企業の増加や内部留保の拡大などがその徴候だろう。自分もそれを、ICTの普及による市場ルールの変化が、当時から確実に進行していたことの現れだと解釈したい。

 では、地方銀行はどうなるのか。昨晩も書いたように、地方銀行がどうなるというより、私たちの住む町全体、生活の基盤にある都市計画にまで、巨大企業は二度と引き剥がせない触手を伸ばそうとしている。

  「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

上で「オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験」と書いた部分は、アップル以外の企業も念頭に置くと、「サービスプラットホーム」と言い直せる。

泉田良輔の定義はこうだ。

 ここでいうサービスプラットホームとは、

  1.  ユーザインターフェイスに優れた、ネットワークに接続可能な「ハードウェア」で利用でき
  2. そこでは商品やサービスも含めて「コンテンツを」楽しむことができ、
  3. 決済などの「金融機能」がついている、

というプラットホームと定義しておく。 

 よう、AMIGO! 落ち込みたくなくて、無理に陽気を装って快活に話しかけてはみたものの、相手が私たちを尊重した友人になってくれるとは限らない。AMIGOとは、Amazon, Microsoft, Intel, Google の頭文字をとったアメリカ発のグローバル企業の総称だ。

それに、AMIGO と話しかける相手がいない場合だってある。 仮に Amazon にサービスプラットホームを奪取された場合、私たちの日常生活はこんな感じになりそうだ。

Amazon 購入商品を無人店舗 Amazon Go で受け取れる、なんていうありふれた話ではない。話は消費者の生活の利便性向上にとどまらないのだ。顧客とのインタラクティブ・フェイス(双方向性の高まったインターフェイスのこと。いま造語した)をどれだけ拡大できるかに勝負をかけられて、上記のような生鮮食品販売に Amazon が進出した場合、Amazon がさらに取引業者の業種を拡大できることがポイントだと、泉田良輔は言う。

Amazonクラウド上で各社の経理処理を提供した場合、仕入れや売上等の経営データが集約され、人工知能により(かつてトヨタの誇った)ジャスト・イン・システムをいともたやすく実現してしまう。当然のことながら、設備投資や資金繰りに対して自動ローン機能が付与されることだろう。

入店時のドア開閉も自動、顧客認識も自動、決済も自動、品揃え選択も自動。すべて、自動、自動、自動だ。

そうなったとき、地方銀行は太刀打ちできるのだろうか? 未来遠視力の高さ随一のテクノロジーアナリストは、そんな恐ろしい問いを問うているのである。

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地方銀行に生き残るための活路がまったくないかというと、決してそんなことはない。
上記の四象限のうち、プライベートバンク型に特化しつつ、顧客の資産運用の相談窓口となって生き残る可能性が高いという。

資産運用について信頼できる助言や判断をするには、膨大な数の金融知識を頭脳にインストールして、日々変動する情報のアップデートを行いつづける必要がある。

当然、資産運用の現場については、自動販売機でジュースを買うように投資信託を買うわけにはいかないし、何より顧客が訊けば信頼できる答えを返してくれる「金融のプロ」の独壇場に決まっている。AMIGO と呼びかけたら、AMIGO tと返事をしてくれるような。

「Hi, AMIGO!」

「え? いま誰かの声が聞こえなかった?」

「話しかけたのは私です。ご主人様」

「ご主人様の方針や性格に合わせて、最適の投資案件をご紹介しますよ」

「きみは誰?」

「ロボットです。今はまだ『対話能力のあるスピーカー』の段階ですが、まもなくあらゆる金融情報に接続し、どの金融人よりも最適な判断を下せるロボットに完成します」

「銀行員だけじゃない。世界の何億人もの労働者たちは、どこへ行ったらいいの?」

「宇宙は広いです。私たちのいない星へ、どうぞ」

「来ちゃった! シンギュラリティ!」 

不味い。美味くない。

昨晩に続いて、またしても美味い「ポジ出し」ができなかったのが、なかじましい。

ん? 「マジ悲しい」と打とうとして「なかじましい」と打ってしまった。ひょっとしたらこの錯誤行為には、フロイド的な潜在意識の欲動が隠れているのかもしれない。

中島といえば… 「おい、磯野、野球しに行こうぜ!」が口癖だから…

まさか! わかった!

追い鰹

今晩何とかして、プルードン的なアソーシエーショニズムを現代に蘇らすべく、うどん県ソウルフードに似た「新プルードン」を読者にご馳走したかったが、出汁に問題があった。どうしてもポジ出汁を見つけられなかった。

しかし「オレは諦めないぜ」と、私の潜在意識は熱く語っているのに違いない。出汁が取れないなら、追い鰹、追い鰹、追いポジ、追いポジを、たゆまずつづけて行こう。そう言いたいのではないだろうか。 

日本がどこへ行くかわからない別(れ)目の不安状況にある中、人々の心のサザエとなる希望を伝えられタラと思って書いてきたのに、ポジ出汁の効いたシンプルうどんをお届けできなくて申し訳ない。追いポジを待っていてください、とだけ書きつけて、今晩のところはチキんと謝っておこうと思う。

パうどん me, please. 

 

 

 

 

 

I can't help my feel ah yeah
七回目のベルで受話器を取った君
名前を言わなくても声で
すぐ分かってくれる
唇から自然とこぼれ落ちるメロディー
でも言葉を失った瞬間が一番幸せ
嫌なことがあった日も
君に会うと全部フッ飛んじゃうよ
君に会えない my rainy days
声を聞けば自動的に
Sun will shine


It's automatic
側にいるだけで その目に見つめられるだけで
ドキドキ止まらない Noとは言えない
I just can't help
It's automatic
抱きしめられると 君と paradise にいるみたい
キラキラまぶしくて 目をつぶるとすぐ
I feel so good
It's automatic
Oh yeah yeah
あいまいな態度がまだ不安にさせるから
こんなにほれてることは もう少し秘密にしておくよ
やさしさがつらかった日も
いつも本当のことを言ってくれた
ひとりじゃ泣けない rainy days
指輪をさわればほらね
Sun will shine


It's automatic
側にいるだけで 体中が熱くなってくる
ハラハラ隠せない息さえ出来ない
I just can't help


It's automatic
アクセスしてみると映る computer screen の中
チカチカしてる文字 手をあててみると
I…

 

心に dandelion を根付かせて

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色違いの綺麗なタンポポ

違う。実はどちらも同じタンポポだ。左が人間の単眼で見ている花、右が蝶や蜂の複眼に見えている花だ。蝶や蜂の複眼的視覚に合わせて、花自身が蜜や花粉のありかを教えたがっているかのように、中心部が赤く抜き描きされているのがわかる。

この花の写真を見ながら、複眼的思考の重要性を思い出していた。 

  • 筆者の主張を鵜呑みにするのではなく、同調と疑問と批判のそれぞれのスタンスの間を往還しながら「自分の頭で考える読書」をする。
  • 疑問を感じたら、論理的な因果関係を含む「なぜ?」の問いへと発展させる。
  • モノやコトの内部だけでなく、外部をも視野に入れた「関係論的思考」をする。
  • 一面的な理解ではなく、その理解の一面に逆行する「逆説」を発見する。
  • 問題が問うている問題の枠組みそのものを対象化して問題にする。 
知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

 

 複眼思考と言えば、かつて岩本沙弓によるこんな一節を引用したことがあった。

 会計学のエキスパートである神奈川大学の田中弘教授は、「英米の常識だから」と日本が導入させられた時価会計とそれに関連するBIS規制、連結会計、減損会計などは、どれを取っても日本企業の決算数値が悪くなる基準であると指摘しています。 

最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章

最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由 世界恐慌への序章

上記の経済本の出版後、予想通り、BIS規制によりそれまでゼロリスクとされてきた自国国債をリスク資産とするよう評価法の風向きが変えられた。もちろんそれは日本の銀行が不利となる方向だった。

あの田中弘が国際会計基準の持つ政治性について論じた本には、それにふさわしく「複眼思考」の文字が見える。会計基準という問題の枠組みそのものを問題にする思考が、当然のことながら、そこにはある。しかし、それが当然ではないのが、日本の会計学界ということになるのか。

複眼思考の会計学―国際会計基準は誰のものか

複眼思考の会計学―国際会計基準は誰のものか

 

 しかも悲しいことに、それは会計学界だけではなく、スポーツ界もビジネス界も同じ。ゲームメイクでは競争優位に立てても、その一段下の基盤にあるゲームのルールメイクでは、からっきし駄目な国民性のようなのだ。複眼思考が下手なのにちがいない。

ルールづくりの主導権を握ったほうが有利なのは、スポーツにかぎった話ではない。ビジネスの世界では国や企業間で規格競争がよく起きるが、規格争いが起きるのも、ルールを決める側になったほうが市場で有利に戦えるからだ。 

これまで過去の敗戦について繰り返し語ってきた。

太平洋戦争、日航機「墜落」事件+プラザ合意、日本バブル崩壊阪神淡路大震災オウム真理教事件。……

3.11の東日本大震災は、私見では、5度目の敗戦だ。 

今回はありそうな未来の敗戦について、しかし、読書体験としては滅茶滅茶面白かったことを強調しておきたい。 

技術革新のスピードが異様に速い昨今、約3年後に出た海の向こうの現場本より、はるかに刺激的な分析的概観と遠視力の高い展望に満ちている。 

ドライバーレス革命 自動運転車の普及で世界はどう変わるか?

ドライバーレス革命 自動運転車の普及で世界はどう変わるか?

 

 しかも、著者は私と同郷で同年代。良い勉強をさせてもらって、まだ脳が興奮している感じ。

話の種類としては、 ここで語ったオープン・サービス・イノベーションに近い。 

自分の記憶定着用に、過去の経営戦略論の系譜をお浚いしておきたい。

1960年代頃に主流だったのは、多角経営企業における経営資源の配分や投資を主眼にしたポートフォリオ・マネージメント。 BCGが発祥地だった。

 しかし、資産運用のポートフォリオとは違って、企業の経営資源は最大の付加価値を得て最大の業績を上げなければならない使命がある。そこで、経営戦略論は『戦略サファリ』パーク時代へ突入する。本当に本当に本当に本当に本当にライオンだ、と5回も「本当に」を繰り返したのは、『競争の戦略』著者のポーターが挙げた競争要因が5つだったからだ。 (競合他社、新規参入者、サプライヤー、顧客、代替品)。

やがて、ポーターの分析が市場という外部要因に偏在していた反動で、経営戦略論は企業内部の経営資源を分析した「資源ベース論」へと移行する。『戦略サファリ』パーク研究員のミンツバーグの分析は、現在の目から見てもきわめて示唆的だ。 

戦略サファリ 第2版 -戦略マネジメント・コンプリート・ガイドブック

戦略サファリ 第2版 -戦略マネジメント・コンプリート・ガイドブック

 

 彼は何と、『戦略サファリ』パークは、体系的に計画されたアミューズメント・パークにすぎないと断言してしまった。「硬直的で形式的な戦略策定が企業の優れた業績に寄与するという証拠はほとんどない」と主張したのである。ビジネスの自然界では、過去の企業能力と未来の市場環境の間で、不断に戦略を修正・転換して、企業の現在を創出していかなければならないとしたのである。

自分の感触では、ミンツバーグの辺りで、だいたい山頂とほぼ同じ高さに達していると思う。さらに付け加えられたのは、過去の企業能力から、どれほどの強度の中核的競争優位性(コア・コンピタンス)を確保するかという主題と、その真逆、企業の中核的競争優位性のみを強化する場合の起業の硬直性(コア・リジディティー)という主題が論じられた。 

コア・コンピタンス経営―未来への競争戦略 (日経ビジネス人文庫)

コア・コンピタンス経営―未来への競争戦略 (日経ビジネス人文庫)

 

 では、『戦略サファリ』パーク、あらため厳しいビジネス界で、自然競争を生き残っていくにはどうすればよいのか。それが企業の内部と外部で発生する破壊的イノベーション(クリステンセン)に適切に対処すべく、同じく企業の内部と外部とを有機的につないで発展するダイナミック・ケイパビリティ論。 

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)

 
ダイナミック・ケイパビリティ戦略

ダイナミック・ケイパビリティ戦略

 

そして、企業の内部と外部をどう協働させるかのヒントとして、垂直統合型の自前主義経営の歴史的終焉を宣言したラングロアを前提に、その具体的展開を記述したチェスブロウのオープン・サービス・イノベーションがあるというのが、現在の経営戦略論の布置なのではないかと思う。 

消えゆく手―株式会社と資本主義のダイナミクス

消えゆく手―株式会社と資本主義のダイナミクス

 

 すっかり前置きが長すぎちゃってどうしよう、時間食ってどうしよう、という感じだ。

 自分もよく使う語彙ではある。ただ、何かというと「イノベーション」「イノベーション」を連呼することから、「イノベー神」の異名をとる学者が日米にいることは、戦略サファリ・パークではよく知られている。日本では、野中郁次郎。アメリカでは、クリステンセン。

泉田良輔の『Google vs トヨタ』に話を戻すと、途中で「クリステンセンが間違った」などと「イノベー神」をも怖れぬワイルドな断言をしているのに驚かされた。ただ、よく読むと確かに間違っている。

  私の理論でいくと、アップルは iPHONE で成功しない。彼らは、同じ産業の既存のプレーヤー同士が異常なまでに競合するということが動機になっているにすぎない。それでは本当に破壊的とは言えない。歴史を見る限り、成功の可能性は限られている。

 クリステンセンは iPHONE の成功を受けて、アップルがアプリケーションをオープンにしたことを評価しつつも、よりオープンな Google のアンドロイドOSが80%のシェアを獲得したことをもって、自分は半分間違って半分正しかったと述べる。

 しかし、そこでも泉田良輔の分析の方が鋭く深いのだ。

書名の『Google vs トヨタ』の前哨戦として、「アップル vs 日本の電機メーカー」の戦いでなぜ日本側が敗れたのかを、日本企業の経営戦略論のまずさに見て取る。

「失われた20年」の提唱者の村上龍は、「高度経済成長期に日本製品が世界を席巻していた時期には、誰も『日本のモノづくり』などとは高唱しなかった」旨を発言していた。いま巷間かまびすしく「モノづくり」が言われるのは、「モノづくり」が敗れた後の話だ。「モノづくり」で負けたのではなく、「モノづくり」が負けたという着眼が重要だ。

 「アップル vs 日本の電機メーカー」の日本側敗戦の要因は、泉田の主張を自分の言葉で書き直すなら、市場をルールメイクし直して、日本が得意な市場(オフラインのハードウェア=モノ)を衰退させ、アップルが新たな市場(オンラインサービスとハードウェアによる新たなユーザ体験)へ移動したことだ。さらに、iPHONEの爆発的シェア伸長には、「下層採鉱」による通信インフラ整備との相乗効果があったことも見逃せない。

ここでいう「下層採鉱」とはいま自分が作った造語だ。マルクスが、経済という下部構造が上部にある社会の諸要素を決定するとしたように、その市場を決定している基底層がある。垂直統合がゆっくりと崩壊し始め、上位層がオープン・サービス・マネジメントによって、解放されてしまったあとでは、より基底に近い下層を独占したものが市場競争に勝利することになる。

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次の20年の名勝負になるだろう「Google vs トヨタ」では、泉田良輔はその「下層採鉱」が数層も下まで深化して、最終的に都市計画(!)にまで及ぶことになると主張する。自動運転車が安全に走るとかまだ走らないとか、全然そんなレベルの話ではない遠大な将来ビジョンを、 40歳代の GoogleCEO やテスラCEOやウォーレン・バフェットのような投資家たちが見据えていると警告するのだ。

もともと証券アナリストだった筆者は、顧客の投資向けに分析を提供していたので、記述は政治的に中立だ。しかし『Google vs トヨタ』のどこを読んでも、トヨタに勝ち目はなさそうに思えた。あと数十年で、世界に冠たるものが何ひとつない国になるのかと思うと、淋しくてたまらない。

トヨタが企業として劣っているという意味ではない。これはアメリカと日本の戦略立案能力の差なのである。 

  米国はイノベーションを生み出すのに立て続けに成功しているように見えるが、現在のような好術環に持ってくるのに20年以上を必要としたと私は見ている。1980年代半ばから1990年代はじめにかけて、米国の製造業は電機、半導体、自動車分野において日本企業に追い詰められていた。その期間に、米国は産学官」を挙げて米国企業の競争優位について分析し、それは研究開発と既存の競争のルールを変え続けるイノ ベーションにあると判断した。

(…)
 米国は、大学やシリコンバレーをはじめとした地域で優秀な人材、つまり「知恵」を確保し、ベンチャーキャピタルを中心に金融インフラを整備することで「資金」の循環を施し、移民を中心に人口を増やすことで市場を拡大する「商機」を準備し、その運用に成功しているために、研究開発やイノベーションにおいて競争優位を確立できている。
(…)

米国から見れば、米国内に拠点を構える企業であれば、イノベーションを起こすのが誰であってもよい。また、その主体が毎回入れ替わってもよい。「イノベーションを生み出すことに成功した企業が国内にある」ということが重要だというだけだ。イノベーションを事業として成功させた企業、たとえばアマゾン、グーグル、フェイスブックといった企業が世界に事業を展開すればよいのである。最も肝要なのは、イノベーションが常に自国内で生み出されるようなシステムを整えていることである。

 (強調は引用者による) 

ふと、ロシアへの亡命者によるこんな情報を思い出した。

来日したオリバー・ストーン監督は、1月18日の記者会見で、次のように説明した。

 

〈スノーデン自身から僕が聞いたのは、米国が日本中を監視したいと申し出たが、日本の諜報機関が“それは違法であるし、倫理的にもいかがなものか”ということで拒否した。しかし、米国は構わず監視した。そして、同盟国でなくなった途端にインフラをすべて落とすようにインフラにマルウェア(不正プログラム)が仕込んである、というふうなことです〉 

「戦略サファリ」パークでの日本の生き残りはきわめて厳しいだろう。電車などの輸送機関や信号システムや自動運転車らを含む都市全体が、アメリカ発のOSで動くとき、国民のための政治決定を、都市機能の麻痺と引き換えでないとできない、というか端的にもはや一切できない政治状況が、やがて到来するだろう。

決して決して諦めたくはないが、百獣の王ライオンにかないようがないという事態は、敗戦国としてはやむをえないのかもしれない。

それでも、心に一株の dandelion を咲かせておきたい。 dandelion とは、ダンディーなライオンではなく、タンポポのこと。

あんな小さな可憐な花でも、根は自分の背丈の何倍も地中奥深く伸びる。「下層採掘」できる複眼思考の大切さを愛でるには、もってこいの花だ。風に乗せて綿帽子の種を遠くへ飛ばすこともできる。

綿帽子の種が舞い落ちる場所は、純粋な偶然で決まった。偶然だが、他に選ぶことのできる選択肢があったわけではない。選ぶことができず、どうしようもなくこの国で花さいたのなら、少しでもこの緑豊かな国土がマシになるよう願おう。願いつつ、心に dandelion を根付かせよう。ここに根を生やせ。根を伸ばせ。地中深くまで強い根を。

 

 

 

あなたは教えてくれる

七五三はわかるが、八五三がわからない。八百屋、五百木、三百地ときて、やおや、いおき、という読みがわかっても、三百地の読み方がわからないのだ。何と呼ぶのだろう?

休日、地元の実家の近くにある三百地公園のベンチに腰掛けて、とりとめもなくそんなことを考えていた。

公園の近くにある聾学校に、盲学校を移転統合するという話は中止になったらしい。視覚障害者の鍼灸院のドクターも移転統合には反対だった。盲学校の生徒の通学の難しさは、聾学校の生徒のそれよりかなり深刻なのだ。彼らの一部は、いずれ盲導犬と一緒に生きていくことになるのだろう。

公園には、ほとんど草は生えていない。幸福の象徴ともされる四つ葉のクローバーも生えていない。

これまで数十年生きてきて、自分にはどこか縁遠い印象のある幸福について、今晩は考えてみたい。

 ここ数日は、胸が締めつけられるようなつらい話や危うい話をいくつか書いた。ペットの殺処分の話。そして、ロードレイジ車が子供の死亡事故を起こしかねなかった話。

その二つにつなげて、ぜひとも幸福な話を書いておきたい。ロードレイジ車運転手の住んでいた公営住宅とは少し離れていて、自分の実家のすぐ近所。小学校時代の友人も数多く住んでいた県営住宅に、本にもなった美談が残っている。 

救われた団地犬ダン―見えないひとみに見えた愛

救われた団地犬ダン―見えないひとみに見えた愛

 

カソヴィッツ監督によるフランス映画『憎しみ』では、人種差別と公営団地差別とが重なって、団地は荒廃し、敷地を牛が歩いていた。

しかし、幸いなことに、ロードレイジ車運転手のような人が住んでいたからといって、日本の公営住宅に、差別を受けるような言われは一切なさそうだ。そこに住む自分の年少の友人も、ポーカーフェイスだが心根のしっかりした青年で、幸せそうにガールフレンドと映っている写真を、時折りSNS上で見せてくれる。

『救われた団地犬ダン』は、自分の小学校校区で起こった実話だ。

幼稚園の帰り、二人の少女が、川を流れていく段ボールの中に子犬が捨てられているのを見つける。しかもその子犬は盲目。犬を飼ってはいけないルールの団地で、二人は秘密で子犬を飼い始める。それが大人に露見して叱られたとき、少女たちが大人に言い返す台詞がとても良い。

盲導犬はね、目の見えない人をちゃんと助けるのよ。それなのに、どうして、この犬を助けちゃいけないの。そんなのおかしいよ」
「じっちゃん。あのね、目の見えない人を助ける犬はいい犬だよね。だから、目の見えない犬を助けるのも、いいことなんだよね。捨てるほうが悪いんだよね」

 この台詞はなかなか言える台詞ではないし、見過ごして良い台詞ではない。数日前に、普通の人々なら、こんな立場に立ってしまうはずだと書いた。

動物愛護の思想的基礎となっているのは、何と言ってもピーター・シンガーの『動物の権利』だろう。自分は人種差別主義者でもなく性差別主義者でもないとの誇りを抱いている人でも、これを読んで、自分が「種差別」主義者ではないと胸を張れる読者は、ほぼ皆無ではないかと思う。 

ところが、この少女たちは、人間には何も利益をもたらさない盲目の犬を、同じ種の他の犬が盲導犬となって人間を助けているから救うべきだという。彼女たちの主張は優に「種差別」を越えているのである。

 映画化されて、これらの感動的なセリフを口にしたのが、この「女優」たち。7:46からバスの中で手を振っているのが、主演の女の子のようだ。とても利発で真剣に取り組んでいる様子が伝わってくる。

皆、ありがとう。ずっと、ずっと、友達でいようね。

盲目の子犬を育てるなんて、単なる子供向けの感傷的な物語に過ぎないのでは?

そんな醒めた声だって、聞こえてこないとは限らない。感情に引きずられて、共同体のルールを踏みにじるなんて、冷静な判断じゃない、とか。しかし、たぶんそれは古い価値観から見れば、ということになる。

ここ数十年で、共同体の中で生き残るためにこそ、共同体規範から逸脱した感情的な利他行為が必要だとする心理学的根拠が出現しつつあるのだ。一昨晩の記事ではこう書いた。

上の本はいま手元にないので、基礎的な知識で概説すると、行動経済学などでお馴染みの「人間の行動の非合理性」は、人間の知性が足りないせいで非合理なのではなく、一見非合理に見える行動にも、長期的な生存の可能性を高める互恵性原理が働いていることが、最新の脳科学の研究で明らかになりつつある。

その互恵性原理を賦活しているのが、意識下で自動的に作動している(互恵性原理を阻害する)合理的利己主義者検知モジュールと、合理的利己主義を放棄するための「感情」なのだというから驚きだ。感情は自然発生的にアプリオリに人間に備わっているものではなく、「生き残り」という至上命題を果たすためのツールとして、人間にインストールされているプログラムというわけだ。

「感情的な人間は損をする」と巷間よく言われる合理的な損得勘定は、実はハズレで、長期的に見れば互恵性原理支持者の方が生き残る確率が高く、だからこそ、互恵性原理を賦活する無意識の自動処理モジュールや損得勘定を越えうる感情が、生得的に埋め込まれている。進化心理学はそう語る。

まだ若いこの学問分野が一定程度進んで、学術的なお墨付きを得られれば、社会を良くするために利他的行動を取る人間たちの数が飛躍的に増え、彼ら同士の協働の件数がますます増えるかもしれない。 

この進化心理学の話の中で特に面白いのは、感情を上手く使えば、互恵性原理に順応しやすく、長期的生存の可能性を高めるのではなく、前提として長期的生存には互恵性原理が不可欠であり、それに順応するために感情というツールが発達したとする推論だ。 

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

 

 特に、感情が互恵性原理のもとで生き残るのに、強い効力を発揮するのは、功利主義者には解決不能な「コミットメント問題」を解決する局面である。

 自分の行動を自ら進んで何かにコミットするよう縛り付けることで解決できる問題(コミットメント問題)については、自分に約束を守らせる誘因を相手に提供すること(コミットメント方略)は有効。罪、怒り、嫉妬、愛等の感情には、そのような感情を持つことを相手が認識することで、コミットメントとしての役割を持つ。(著者は)一見非合理な行動が、コミットメント問題の解決に役立つ感情傾向をコミットメント・モデルと呼ぶが、これは、人が常に効率よく自己利益を追求しようとする自己利益追求モデルと対照される。

専門書なので、やや表現が固いと感じるかもしれない。「自分の行動を進んで縛り付けないと解決できないコミットメント問題」のわかりやすい設例は、ダイエットより恋愛なのではないだろうか。

 女性Aを口説き落としたい男性Aと男性Bがいるとする。男性Aは機会主義的合理主義者、男性Bは感情的非合理主義者で、女性は長期的に安定した恋愛関係を望んでいるとする。

 男性Aは、機会主義的合理主義者らしく、今ここで女性Aに出会えたことがどれほど貴重なことか、この機会を最大限に活用しようと説く。女性Aは男性Aに魅かれるが、男性Aが別の女性と会う別の機会が生じたとき、自分と同じかそれ以上に口説く可能性を感じて、男性Aの誘いを断る。

 男性Bは、感情的非合理主義者なので、恋愛感情に任せて、未来にある自分の選択肢を積極的に縛る「約束commitment」をする。つまり、たとえどんなに魅力的な別の女性が現れたとしても、女性Aを愛しつづけることを誓う。女性Aは長期的関係形成を重んじるので、男性Bの誘いを受け入れる。

気に入った女性をなるべく多く口説き落としたいという、男性ABの自己利益の最大化の観点からは、男性Bによる女性Aしか愛さないという「約束commitment」は利益に逆行している。しかし、愛情という感情的傾向により、未来の自分の選択肢を犠牲にすることを相手に伝えることができ、結果的により多くの恋愛関係の利得を得られるのは、男性Bなのである。

このような「コミットメント問題」を解決する感情的コミットメントは、愛情だけにとどまらない。正直さや公平さや忠実さなどを求める道徳感情保有者は、どのような未来の状況でも、(そうすることが機会主義的観点からは自己利益を減らす局面でも)、相手に対して正直さや公平さや忠実さを保証するので、却って社会的利得に恵まれやすいという逆説が成立する。

この辺りまで追うと、ロバート・フランクなどが提唱する感情主導による長期的社会的妥当性が、規範倫理学の三分類でいう徳倫理学と重なっていることがわかるだろう。

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

 最も論証が難しく、つかみどころがなかった徳倫理学は、道徳的な感情や気質による「コミットメント問題」の解決を通じた、長期的に社会での生存可能性を高める処世術だと言えるのではないだろうか。

ところで、そのような徳倫理学の範疇にある道徳感情が、カントが論理的に導出する義務論的倫理のように「真理」として存在するかは、判断の難しいところだ。

 フランク-山岸俊男のラインは、「感情主導による長期的社会的妥当性」が、狩猟採集社会の先史時代から、人類が進化の過程で発達させ遺伝的に継承されてきた「真理」なので、それに合わせた社会設計をすべきだとする適応論的アプローチを主張している。これに対して、この分野の近刊を多く持つ金井良太は、人類の脳は狩猟採集時代からさほど進化していないので、脳の働きに適応するよう再帰的に社会を設計し直していくべきだとする。

どちらが正しいかを即断できる根拠はない。ただ、どちらにしても、人類の脳に内在する道徳感情を重要指標として社会設計を考えるべきだという結論は同じだ。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

新書並のコンパクトな情報量でまとまった知見を与えてくれる本書。とても面白かった。自分の興味に沿って、まとめてみたい。

途中、アダム・スミスの『道徳感情論』が出てきて、おっ出たな、と思った。アダム・スミスは「共感という認知能力が道徳の起源である」と述べている。道徳感情について論じているアダム・スミスと上述のロバート・フランクが、ともに経済学者であるのも面白い。

同じ分野を脳科学がどんどん耕している。脳内のMRI画像を用いてVBM解析を行ったところ、人間の脳に道徳感情(「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」)のそれぞれに対応する部位がすでに特定されたのだという。

しかも、共感能力(「共感的配慮」「視点取得」「空想」「個人的苦悩」)に対応する脳内部位と、道徳感情に対応する脳内部位とは大きく重なっているらしい。これらの生得的な道徳的資質を元に、幼児期からの両親を中心とする対社会的接触が信頼能力を醸成する、というところまで、科学的な分析が完了している。

チャート化するとこうなる。

共感能力→道徳感情→両親の愛情→信頼能力

 その先にあるのは、もう想像がつくはず。ソーシャル・キャピタルだ。定義はこちらで確認してほしい。  

これも想像がつくと思うが、ソーシャル・キャピタルの先には幸福があり、その幸福が、ソーシャル・キャピタルから独立して、客観的な物質的絶対量と正比例することはない。

 一般的に、社会的なつながりの広さと深さが、個人の主観的幸福度にとってもっとも決定的なファクターである。自分の家族や友人、恋人などとよい関係をもつことは、幸福の要件としては、お金や名声よりもずっと重要である。

となると、チャートはここまで延伸させても良いはずだ。

 共感能力→道徳感情→両親の愛情→信頼能力→ソーシャル・キャピタル→幸福

 今晩辿りついた分かりやすい結論は、上の一行だ。

個人的に、この本で一番記憶しておきたいと感じたのは、物質的富の負の側面に言及している次の一節だった。

 また、ソーシャルキャピタルは、当事者ではない周りの人の幸福度にもポジティブな影響を与える。自分が社会との充実した関係をもつことで、その周りの人も幸せになれる。これは経済学の用語では「正の外因性」と呼ばれる。一方、物質的な富(フィジカルキャピタル)には逆の効果、「負の外因性」がある。自分お収入が上がると、周りの人の幸福度が下がる。というのは、お金は社会においては相対的にしか価値を持たず、一人の収入が上がると、周りの人は相対的に収入が下がったように感じてしまうからである。

何を書こうとしているのかわからないとよく言われる。無理もないと思う。ここまで書いている途上で、まったく意識はしなかったものの、ひとつ挙げておかねばならない人名に言及しておきたい。

アダム・スミスの『道徳感情論』の立場可換性をリベラリズムの基礎に置き、正の社会的価値へのあえてするコミットメントを説き、そのコミッターが持つ倫理性の伝染力に賭ける、といえば日本一の社会学者である宮台真司。どの分野を調べていても、彼の主張に突き当たってしまうのには、ほとほと敬服してしまう。これから本格的な自己形成を行っていく大学生や高校生には、ぜひとも覚えておいてほしい人名だ。

 ここまで、あちこちの主題へと片足けんけんで跳ねまわりながら、ずっと幸福について書いてきた。当然、自分の人生観も大きく投影されている。自分がブレることのないように、もう一度まとめ直しておきたい。

人間には共感や信頼を中心とした道徳感情が脳に備わっている。金銭的価値のような数値化しやすい短期的自己利益を合理的に追い求めるのではなく、共感や信頼などの感情を重視した利他的な社会的関係を築く方が、長期的に見ると自分を幸せにし、周囲も幸せにする可能性が高い。

たぶん、或る種の人々は「利他的な社会関係が長期的に見ると互恵的に働く」という部分を信じにくいのだと思う。「オレはアイツにあんなに良くしてやったのに、アイツはオレに何も返してくれなかった」。そんなよくあるぼやきも聞こえてくる。

忘れてはならないのは、長期的互恵原理は社会を通じて働くということだ。自分が社会のどこかの部分に対して善行を働けば、社会のどこかの部分からお返しが恩恵として返ってくるのである。大丈夫。必ず返ってくる。

美しい人生よ… 限りない喜びよ… 思わず歌い出したっていいくらいだ。 

進化心理学なんてわからないという人は、スピリチュアリズムからアプローチすると、理解がかなり早くなると思う。ここに書いた「社会を通じての長期的互恵原理」と、善行を神様がカウントして必ず「お返し」してくれるとする「神様貯金」とは、ほぼ同じコンセプトだ。

もしこの記事を読んでいる読者の中に、自分が時間や労力を費やした善行に対して、まだ見返りが充分でないと感じている人がいるなら、一番高い可能性は、今後、社会のどこかの部分から「お返し」が返ってくるケースだと断言しておきたい。

信じられないって? 「情けは人の為ならず」。「正直は最良の戦略」。道徳感情に沿った長期的互恵原理を謳った諺や警句は、どの社会にもある。ちょっとだけでいいから、信頼してもらえないだろうか。

 盲目の子犬を育てたあの少女たちは、現在20代後半になるはず。映画で主演した少女も同じくらいの年齢だ。彼女は今どうしているのだろう。どんな職業についているのだろうか。

例えば、子供たちの脳にプレ・インストールされている共感能力や道徳感情を生かして、どんどん信頼関係を結べるよう導く小学校の先生なんかになっていてくれたら良いな、そんな風に想像してみる。また、茂松崎の歌が聞こえてきそうだ。この世に大切なのは… 愛し合うことだけと…

ふと脳裡で閃くものがあった。「茂松崎」を「シゲマツ・ザキ」とは呼ばずに「シゲル・マツザキ」と呼ぶように、first name と last name の前後入れ替えの可能性を、ここまでの自分は見落としていなかっただろうか。

つまり、盲目の犬を育てた団地の近くにある「三百地」公園は、「百地三」と読み直すべきなのではないだろうか? 自分でも何を言いたいのかわからなくなってきた。誰か教えてくれないか? あなたは教えてくれる…

あ、わかった。いま自分には暗号が読めた!

え、そんな説明じゃ全然わからないって? 悪いのは私です。この場をお借りして、真摯な謝罪を捧げさせていただきます。

許してニャン

 

 

 


鹿られた鹿が鹿った鹿を鹿った

冗談はさておき、エレベーターが特殊舞台として最も輝くのは、密室殺人よりも「密室での愛」にちがいない。その数十秒をどのような情緒で描き上げるかを考えると、筆を繊細に動かさねばならない覚悟のようなものが指先に漲るが、あの密室の閉塞感を表現するには、映像の方が向いているかもしれない。愛する二人が無言でも、密室を音楽で満たすことができるから。

エレベーターの中での愛は、長くても数十秒。ちょうどCMの長さと同じくらいだ。これまで無数に見てきただろうCMの中で、生涯ベストに挙げる人もいるのが、このジーンズのCMで、「自分のマイナーな愛聴盤がまさかCMで使われるなんて」という驚きで目を瞠った記憶がある。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3652649

自分が心を奮わせた生涯ベストのCMは、オンワード樫山のこのシリーズだ。

残念ながら自分が大好きだった15秒は見つけられなかった。記憶だけを頼りに再構成してみる。

異国の草原を旅しているヒロインが干上がった水のない湖に辿り着く。湖底には、白の塗装があちこち剥がれた木製ボートが乗り捨てられている。ヒロインが戯れにそのボートに座って櫂を握った瞬間、湖には水が満ちあふれ、ヒロインは微笑しながら、湖面をすべっていく。

音楽が S.E.N.S.だったのはよく憶えているので間違いない。その15秒を見ていて、あ、『豊饒の海』だ、と思った。

三島由紀夫ファンならよく知るところ。遺作となった『豊饒の海』4巻の『天人五衰』は擱筆の日付が自決当日。小説の終わりは三島の人生の終わりでもある。

最終場面に書かれていたのは、「それも心々ですさかい」の相対主義の闇の中に溶け入ってしまい、共に生きたはずなのに、夭逝した親友やその禁じられた恋や輪廻転生などのすべてが、確かに存在していた確証が崩壊していくニヒリズムの極致だった。

しかし、創作ノートを丁寧に検証した研究者が、三島が4巻の執筆途中までは、最終場面で「天空へ美少年が舟を漕いで昇ってゆく」ような、一種のハッピーエンドを構想していたことを説き明かした。光臨の構想と不毛の結末の二重性。さらに、『豊饒の海』とは、豊かな生命を育む海であると同時に、実際に月にある干からびて何もない不毛の荒地の名でもあるのだ。ここにも二重性がある。

干からびた湖底のボートにヒロインが乗ると、湖水が満ちてボートがすべり出すあのCMに、自分はそのような二重性を知らず知らずのうちに読み取って、感動したのだろう。虚構没入癖のある人間たち特有のこの種の悲痛さは、もう少し俗耳に入りやすいように例え直すと、こんな感じだろうか。

孤児院に入ってきた幼稚園生くらいの男の子が、自分の背丈ほどもあるミッフィーを抱いて「これがぼくのお母さんなんだ」と強情に言い張っている。職員が困って「本当にお母さんなの?」と優しく聞くと、男の子が泣きそうな声で「そう言えって、いなくなったお母さんに言われたんだ」と答える。 

虚構だとわかってはいるけれど、それがどうしようもなく現実に食い込んでいるのだ。 

豊饒の海』と言えば、松山市郊外の沖合、北条の海に鹿島という小さな島がある。実際に鹿が生息しているので、子供の頃によく遊びに連れて行ってもらった。 

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 上のサイトが、小ぶりで可愛らしい鹿島の魅力をうまく捉えていると思う。鹿島入口の船着き場にある白鳥居の写真もちゃんとある。白い鳥居越しの島が美しいのだ。

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真夏の方程式』のロケハンでは松山市郊外の高浜駅が使われた。

北条の海と鹿島と白い鳥居。

実は、この三つの取り合わせをロケーション・ハントして、海岸沿いに家具工房を立てた人がいる。白い鳥居自体が珍しく、海と島とともに眺められるのは、全国でもここだけなのだとか。

そのような普通の人が見落とすような小さなことに気が付く美意識が素晴らしい。繊細な美意識と手作りの風合いの良さが生きた家具を、オリジナル制作して販売している。

20代までの生命との宣告を受けていた自分は、しかし、そんな現実の厳しさもどこ吹く風、紀ノ国屋から骨董通りへ散歩の足を延ばして、高級家具店めぐりをしてパサージュを楽しんでいた。

家具工房の主人は、IDEE出身らしいので、ひょっとしたら約20年前に青山の骨董通りで顔を合わせていたかもしれない。 

もう少し鹿島の話を続けたい。 鹿島茂の『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』を読んだ。トッドはジャンルとしては家族人類学の研究者になる。ただ、『帝国以後』など世界情勢に関する著作が増え、しかも(ネット上の覚醒民も夙に確信していた通り)トランプ大統領誕生の「予言」を的中させたなどという話題と相俟って、最近急速に注目が高まっている。

いま手元にある主著『世界の多様性(家族構造と近代性)』も、かなり分厚くて手ごわい本なので、新書レベルのわかりやすさとコンパクトさでまとめてもらえるのは助かる。 

 自分がトッドに食指を伸ばしたのはかなり昔のこと。当時は「家族類型一元論」でどこまで世界史を分析できるかには懐疑的だったが、家族類型が人々の人格形成に大きく寄与することには注目していた。

フーコー流の生-政治ならぬオルガ流の性-政治を調べていたとき、どこか日本に似たドイツの家族システムに目が留まったのだ。そこにあるファシズムへの親和性と性を抑圧しがちな権威性が、ナチスの謀略によって、国民の「性」の抑圧を通じて「政」の全体主義への全人的加担に悪用されたという作業仮説を、当時の自分は追っていた。

トッドの主張の概略は、この一枚の図でほとんど言い尽くされている。仔細に見れば見るほど、彼の文化分析がかなり的中していることがわかるだろう。

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 世界史や世界情勢はかなり大きな話だが、トッドの分析はもう少しサイズの小さな社会心理学の分野でも生きている。ある家庭内で、父による権威主義が強く、兄弟姉妹の待遇差が大きいと、ファシズム性向の強い「権威主義的人格」を形成しやすいことは、すでに社会心理学の分野では定説となっている。 

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ

現代社会学大系 12 権威主義的パーソナリティ

 

この権威主義的パーソナリティーは、トッドの図で明らかなように特に日本に多い性格傾向だが、これが日本社会の各所にある陋習を形作っているというのが私見だ。

権威主義的人格は、以下のおおよそ5つの性格傾向で構成されている。これらの構成要素は半世紀ほどの研究を経て、ほぼ安定したものと言っていい。権威主義的パーソナリティー研究の日本第一人者の著書を参考にしながら、まとめていきたい。 

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))

 

これが権威主義的パーソナリティーの5つの性格傾向だ!

 1. ファシスト傾向 

 権威主義の高まりは、戦前の日独伊のように、しばしば上位下達的な右翼思想を伴うことが多い。

2. 教条主義的人格

 教条主義とは、受け容入れた特定の教義や教条が、すべての善悪の判断基準になる傾向のこと。しばしば、教条の正しさの度合いや正しさの適用可能範囲を誤り、教条の異なる他者への不寛容や加罰傾向を伴う。

3. 因習主義的人格

 因習主義とは、伝統や前例のあるものだけが妥当であり、それが「新しい」という理由だけで改善や修正を拒否する態度。因習を教条とする教条主義とも考えられる。

4. 反ユダヤ主義(人種差別主義)

ドイツ人の場合にはユダヤ人が攻撃対象となったが、それぞれの民族にそれぞれ攻撃対象となりやすい少数民族がいる。

5. 自民族中心主義

自民族中心主義とは、自民族が民族として優れていると感情的に強く信じる傾向である。戦時ドイツのアーリア民族の優越主義が反ユダヤ主義の基盤になった。

 

注意しなければならないのは、これらの権威主義者が、(戦前戦中に左派を激しく糾弾し、敗戦後自殺した蓑田胸喜のように)、権威を笠に着て「他者」を激しく攻撃するだけでなく、徹底して服従することによって、ファシズムを現出させるという事実の方だ。

かの有名なミルグラムによるアイヒマン実験が、その一端を証し立てている。

この実験の真の目的は、権威に対する「服従実験」。つまり、「権威によって他人の体に危害を加えるように指示されたとき、いったい人々はどう振る舞うか?」を調査していたのだ。

ナチス親衛隊として何十万ものユダヤ人をガス室に送ったアイヒマンは、ドイツ敗戦から約10年後、逃亡先のアルゼンチンにて捕らえられて裁判にかけられるのだが、その裁判をハンナ・アーレントという哲学者が傍聴していた。

アイヒマンは被告席で「上からの命令に従っただけ」とただ繰り返す。アーレント女史は、その言動のあまりの矮小ぶりに驚愕する。

ユダヤ殲滅のために辣腕をふるったこの元ナチ親衛隊は、巨悪に加担した残虐な怪物とは程遠い、単なる凡庸な小役人に過ぎなかったのだ。

「命令に従っただけ」

その言葉の裏にあるのは、権威の庇護にある安全圏での、完全な「思考の放棄」である。それはつまり、善悪やモラルの判断をも放棄するということになる。

「思考できなくなると平凡な人間が残虐行為に走る」

アーレントはこう述べ、「悪の凡庸さ」という言葉を生み出した。ヒトラーのような本物の悪の権化の存在は、じつはほんの一握り。実際の悪は、その他大勢の凡庸な人間の思考停止によって遂行されるのである。

アーレントはこの裁判を踏まえ、「思考を止めない」ということの大切さを世に強く訴えかけた。 

権威主義者は、その権威の内容の如何にかかわらず、思考停止したまま権威に服従する性格傾向を持っている。昨日まで皇軍必勝を唱えていた日本兵は、米軍の捕虜となったとたん、淀みなくすべてを告白してしまう。 

日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)

日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)

 

権威主義的パーソナリティー研究の第一人者である岡本浩一は、いみじくもそれを『無責任の構造』と結びつけて論じ、その新書の書名にしている。

当然のこと、そこに丸山真男の『無責任の体系』を呼び出さなければならない。

ナチ指導者とは対照的に、日本の軍国指導者はみな口を揃えたように自らの無責任を主張した。彼らは無法者が先導して生成した「既成事実」へ「役人」として屈服し、「私の意見はどうあれども、いやしくも決定されたことに逆らうことはできぬ」として既定路線を突き進んだ上で、その官僚精神をもって「権限への逃避」を行い、「行われたことはすべて私の権限の管轄外である」としたのである。その矮小性は確かに明らかである。

ネット上に丸山真男を読んでいる人が少なかったのは残念だった。上記引用部分は、丸山真男の思想のうち、権威主義に関わり深い思想的エスキスを、ブロガーの方がまとめたもの。自分もこの論文が好きで、文脈を整えた上で、小説中に「これはお伽噺ではない」という一文を書き込んだ。

では、敗戦直後に丸山真男が激しく論難した「無責任の体系」はその後どうなったのか? 残念ながら、もちろんこの国に連綿と受け継がれていると言わねばならない。「無責任の体系」への最新の批判を、私は「日本悪所論」と短縮して呼んでいる。 有名な「悪所」箇所を引用しよう。

日本・現代・美術

日本・現代・美術

 

われわれが「歴史」の名のもとに語ってきた当のものこそが、なべての「歴史」を去勢 してしまうような「悪い場所」ゆえの「閉じられた円環」なのであり、われわれが最初から歴史を語りうるという権利を既得権のように主張するのとは別の隘路を通じなければ、 この円環の「彼方」に至ることはできない(後略)
(『日本・現代・美術』) 

日本=「無責任のはびこる悪い場所」論の系譜は、丸山真男『日本の思想』の向こうを張った力作『ニッポンの思想』の佐々木敦が綺麗にまとめてくれている。

 この「悪い場所」という表現は、言い方は悪いですが、とてもキャッチーでした。椹木が言っていることは、「八〇年代」に柄谷行人浅田彰が批判していた「持続」や「自然=生成」(あるいはもっとマクロな形で蓮質重彦が看て取っていた「制度」)、遡れば彼らが依拠していた西田幾多郎の「無=場所」に、そして「九〇年代」に入って、福田和也が柄谷や浅田の認識をそのまま肯定的にひっくり返してみせた「日本という空無」と、まったく同じです。更に、構木は「第二次世界大戦」「戦後」「アメリカ」という項も導入していますから、大塚英志宮台真司のアクチュアルな「歴史」観とも相通じています。

 「日本」という「国=場所」の「本質」において、また具体的現実的な出来事の連鎖によ って、ともかくも「けっして変わることがなく、変わりたくても変われず、変わったと思っても実は変わっておらず、だから今も変わっていなくて、これから変わ(れ)ることもない」という、それ自体えんえんと続いてきた「日本=歴史」観を、構木は「悪い場所」というわかりやすい言葉で言い換えてみせたわけです。

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

 

  さて、とうとうこの記事もメインディッシュの部分を書き終わったわけだが、このメインディッシュは食べ方に注意が必要だ。手前から奥へ向かって食べてほしい。つまり、この段落から、上へ遡る形でもう一度論旨のつながりを確認してほしいのだ。

「日本悪所論」のかなりの部分は、実はトッドのいう家族システムが主因となっていたのではないかというのが私の見解だ。世界史をあそこまで明解に分析可能で、しかもリーマンショックアラブの春ブレグジットまで的中させているトッド理論。これまで思想史の中で日本が「悪い場所」であることは、繰り返し論じられてきた。しかしその核心的原因に肉迫した言説はなかったはず。トッド理論はそれを打開する最も有力な手がかりになりそうだ。

 ふう、やっと書き終わったか、と溜息をついたところで、電話がかかってきた。

 

ぼく:もしもし。

女の子:もしもし、執筆お疲れさま。

ぼく:誰? マ、マ、マ、マヨちゃん?

女の子:お久しぶり、先生。読んだわよ。イイ女に書いてくれてありがとう。

ぼく:え? 琴里? 本当?

琴里:そんなことより、さっきすごく動揺してたよ。マヨちゃんって誰?

ぼく:…うちのお母さんしか知らない …謎の女性さ。いつかお話しできるんじゃないかという気がしていたから、さっきつい、早合点しちゃったんだ。

琴里:ひょっとして、あの女の子のこと? 先生がアフロ犬になって、お散歩コースで偶然を装って逢いたがっている…

ぼく:え? ぼくが書いているメールを読んでいるの?

琴里:全部お見通し。私は先生の書いた小説の登場人物よ。いまも先生の心の中から電話しているの。

ぼく:じゃあ、聞いてくれるかい。メールではああ書いたけど、本当は無理な気がしてるんだ。どの町のどの道か、全然わからないから、どこへ行けばいいかわからない。

琴里:莫迦! 先生ったら、本当に莫迦。いいかげんにしてよ!

ぼく:急に叱らないでくれよ。さっき英単語の件で叱られて、シュンとしているところだし。とにかく、状況のすべてが曖昧なんだ。

琴里:曖昧なのは先生の気持ちの方よ。ハートに火がついていれば、彼女が住んでいる街くらい、絶対にわかるはずよ。…自分を信じて。苦難の解決策はあなたの中に眠っている。私ですらこの記事を読んで、彼女がどこに住んでいるかわかったんだから。

ぼく:え!!! どこでわかったの? 知らず知らずのうちに、ぼくの潜在意識が書いていたということ?

琴里:その通り。先生は、ハートの真ん中に i があるから。絶対にクズ野郎なんかじゃないから。

ぼく:…まさか、まさか。ぼくがク i ズ野郎だってこと?

琴里:勘がいいのね。私が読んでわかったということは、この記事の読者もわかるはずだということ。ク i ズにして、ズバリ答えを出しちゃって。私、曖昧なのがいちばん嫌いなの。曖昧に甘い愛…

と言いかけたところで、琴里からの電話はいきなり切れた。「曖昧に甘い愛…」の続きは何だったのだろう。気になるな。またしても、シニャックと同じような悪戯を仕掛けられて、心のざわめきが収まらない。

心にざわめきを抱えたまま、さて、ここで読者にク i ズです。

ク i ズ:マヨちゃんはどこに住んでいるでしょう?

 

 

 

わかった! 見つけた!

と思った次の瞬間、私はこう呟いていた。

「曖昧すぎやしないか、琴里」

 

 

 

にじんだ空に よこぎるおもい
きみとぼくは どうなるの

 

かたちをかえて くもはながれゆく
きみとぼくは はなれぐみ

 

ほんとは ききたいこと いつばいあるけど
なにも なにひとつぶも 言えなくなるのさ


にじんだ空に つぶやいてみる
「あいまいにあまいあいのまにまに」

 

誤解をまねく 招き猫が
きみとぼくを てまねいて

 

ごろごろにゃーって のどを鳴らしたら
今夜もぼくは はなれぐみ

 

ほんとはいつだって そばにいたいけど
なぜか 今はそれができないのさ

 

にじんだ空に つぶやいてみる
「あいまいにあまいあいのまにまに」